私の半生
12『宗教』
私は、教会の保育園に通っていた。お祈りやオルガンでの聖歌が初めて楽しく触れた宗教だ。
両親の本家とも、たしか浄土真宗だ。法事などがあると仏壇にお寺さんなど格式が感じられた。しかし、母は 創価学会だ。父が、浄土真宗のお経を私に唱えさせようとしたら母は怒り創価学会を唱えさせる。
本家の法事などでも数珠は持たされなく手を合わせるとバチがあたるように思わされた。子供の頃は、よくわからず創価学会の集まりなど連れてかれたり毎日お経を唱えていた。母が実家に近いからと、キリストの保育園に入れたくせに、聖歌やお祈りなど覚えてくると止められ、本家の宗教も私に悪いことのように私に諭す。母は回りの人なども少しづつ宗教を押し付けていく。友達などが集まる神社のお祭りさえ、鳥居をくぐるなと言われた。
どの宗教が良いとか悪いとかはないと思う。 私は、今は神社で大祓や初詣をしている。でも除夜の鐘も別院につきにいく。神仏両用だ。
私は心が洗われ生活の態度が立て直され、気が晴れればどの宗教でも良いと思っている。毎日平穏に暮らせるように気を引き締めたり感謝するために宗教があり、いつも誰かが見ている、分かってくれている、その見ててくれるのが神や仏だと日々正しい行いが出来るのだと思う。大事なのは、普段の生活を見失わない事。おふせを多額に払ったり、勧誘に日々を費やしたり、知人との付き合いを断らなければいけなかったり、仕事さえ辞めたり、本末転倒にならない事だと。神を信じていないから願い事はしないと言う人もいるが、自分を信じてないのだと思う。神、仏は、すがるものではなく自分の意思を強く持つ糧の気がする。無宗教だと言う人もいるが、その人達も勝負や賭け事の時など祈った事があるはずだから無宗教とは違う。私は、祈る時タバコやめますとか悪いことしませんからとか、何かを代償に祈ってしまう。おふせだからとお金などを代償に祈るのではなくボランティアで社会に貢献するなどを自分の祈りの代償とするのが宗教のありかただと思う。
私は、教会の保育園に通っていた。お祈りやオルガンでの聖歌が初めて楽しく触れた宗教だ。
両親の本家とも、たしか浄土真宗だ。法事などがあると仏壇にお寺さんなど格式が感じられた。しかし、母は 創価学会だ。父が、浄土真宗のお経を私に唱えさせようとしたら母は怒り創価学会を唱えさせる。
本家の法事などでも数珠は持たされなく手を合わせるとバチがあたるように思わされた。子供の頃は、よくわからず創価学会の集まりなど連れてかれたり毎日お経を唱えていた。母が実家に近いからと、キリストの保育園に入れたくせに、聖歌やお祈りなど覚えてくると止められ、本家の宗教も私に悪いことのように私に諭す。母は回りの人なども少しづつ宗教を押し付けていく。友達などが集まる神社のお祭りさえ、鳥居をくぐるなと言われた。
どの宗教が良いとか悪いとかはないと思う。 私は、今は神社で大祓や初詣をしている。でも除夜の鐘も別院につきにいく。神仏両用だ。
私は心が洗われ生活の態度が立て直され、気が晴れればどの宗教でも良いと思っている。毎日平穏に暮らせるように気を引き締めたり感謝するために宗教があり、いつも誰かが見ている、分かってくれている、その見ててくれるのが神や仏だと日々正しい行いが出来るのだと思う。大事なのは、普段の生活を見失わない事。おふせを多額に払ったり、勧誘に日々を費やしたり、知人との付き合いを断らなければいけなかったり、仕事さえ辞めたり、本末転倒にならない事だと。神を信じていないから願い事はしないと言う人もいるが、自分を信じてないのだと思う。神、仏は、すがるものではなく自分の意思を強く持つ糧の気がする。無宗教だと言う人もいるが、その人達も勝負や賭け事の時など祈った事があるはずだから無宗教とは違う。私は、祈る時タバコやめますとか悪いことしませんからとか、何かを代償に祈ってしまう。おふせだからとお金などを代償に祈るのではなくボランティアで社会に貢献するなどを自分の祈りの代償とするのが宗教のありかただと思う。
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