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ワーキング・プアからの脱出 57

[372]  楽園 海風  2008-07-17投稿
何故、強く叱られ、解雇されなかったかと言うと、仕事が早く、しかも出来上がりが綺麗であった為です。熟練工が午前1台、午後から2台仕上げるのが普通でしたが、父は午後から仕事を始めて、5台は仕上げていたのです。
そんな自堕落な生活ぶりを心配した故郷の母、つまり私の祖母が、姪である私の母に、
「カネちゃん、某市へ言って勝雄の面倒見てやってくれへん?」
と、頼みました。
私の父は勝雄、母は金子、お互いの母同士が姉妹のいとこ同士でした。
今の時代では考えられない事かも知れませんが、母は叔母の無理な頼み事を素直に承諾、父の居る某市に出て行ったのです。 父、24歳、母、24歳の春でした。
押しかけ女房同然で父の下宿に居候を始めた母でしたが、父の生活態度は一向に改まりませんでした。 特に困ったのは、給料日の次の日から2週間程旅行に出て、給料全額使い果たし、無一文で帰宅する事でした。私の兄である長男が生まれても、そんな生活態度は直らなかったそうです。当時の父母と兄の生活は、母の失業手当と故郷からの米、野菜等の仕送りで維持されていました。
昭和29年10月28日、晩秋の某市、下宿から歩いて5分程の会館で、父と母のささやかな結婚式が執り行われました。 式当日も父は忙しく働いており、式場にも作業服のまま現れ、式が終わると直ぐに仕事に戻ったそうです。 そんな父を、仲人であった父の義兄が、
「結婚式の日までバタバタ働きおって、勝雄は出世できないな。」
と、言ったそうです。 今でも母は、義兄の言葉を許せないと言いますが、勲章を授与された親戚は、戦争での物を除き、父だけですから、父の義兄の言葉は当たっていなかったことになります。
結婚を機に、父は独立を果たし、塗装会社を開業しました。 元の会社で仲の良かった板金工と2人で仕事を始めました。 先述のように焼付塗装の技術を開発していましたから、特に進駐軍の将校の外国車の修理が、日本全国から入って来たそうです。
昭和30年当時と言えば、大学卒業者の初任給が1万5千円から2万円程度だったそうですが、60万、多い時は100万円を超える程、1ヵ月の給料を持ち帰ってきたそうです。
つづく

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