虫5
外は霧雨だった。急に心臓が高鳴り、ふわりとした感覚になった。私は自分が自分である感覚さえ、一瞬見失った。射る様に睨む彼の腹に、手に持った傘を突き刺した。「何すんだこのやろう」息んだ様な声で彼は怒鳴った。私の手首を驚く程強く掴み、自分の体から引き剥がした。私は後部座席に突き飛ばされた。物凄い勢いで彼は私に馬乗りになり、髪を鷲掴みにして数発殴った後、首を絞め始めた。その手は恐ろしい程力強く、温かかった。彼のラガーシャツの腹にはくすんだ緋色の染みが広がっていた。私は薄れる意識の中で思った。死にたくない。こんな形で、殺されたくない。私は自分と共に跳ばされた血塗れの傘を手繰り寄せ、残りの力で彼の横顔を叩いた。それに怯んで彼が体を離した瞬間、振りかぶった手を彼の左目に突き刺した。「うぁあ!」私は声にならない叫び声を上げていた。ごつっと骨に当たる鈍い音と手応えがあり、細かい血飛沫が私の顔にかかった。傘を引き抜くと、ジェンティレスキの絵画の様に細い血潮が吹き上がった。「ががが」彼はうがいをする様な不可思議な声を上げて仰向けに倒れていた。断末魔の戦慄を続ける男を私は、ただ呆然と見つめた。彼の思う通りだ。人間は正に虫だと。
感想
感想はありません。