裸婦の肖像―序章
「側に居てくれる?」
芳樹はうっすらと不気味に呟いた。
亜希子の恋の中枢は、活動する。脳にドーパミンが、送られる。
こんなに年老いた優しい男をひとりぽっちには、できない。
芳樹は80を過ぎた老人。亜希子は25になったばかり。
2人は1枚の絵で結ばれていた。
美術学校の生徒と講師。許される恋ではなかった。
亜希子の描いた一枚の自画像が2人の運命を結びつけていた。
亜希子は自分のヌードしか描かない。どんな猥褻な姿も惜しまず描いた。2人は恋に墜ちた。
肉体関係はない。
あるのは、地上の愛。
揺れる言の葉。
煌めく瞳。
亜希子は誰も居ない、静かな海で芳樹を抱きしめた。
微かに残る白髪を愛しそうに撫でる。
それに反して、亜希子の長い漆黒の髪が風になびいた。
永遠を感じた。
ただ静かに閉ざされた愛が、ここにはあった。
なまめかしくも、白い指が、芳樹の皺を寄せた唇に触れる。
「何も言わないで。」
時が止まる。
汚れた緑の波は、寄せては返し、永久運動を続ける。
蒼空は澄んでいた。
「孫に手紙を書いたんだ。」
「そう。」
亜希子はそっと指を離し、芳樹の暗い瞳を見た。「…こんなこと、喜べないわ。」
「私が決めたことだ。」2人は地の果てに、来ていた。
誰にも何も告げずに。
「心から…愛していると、伝えておいた。」
「お孫さんも、哀しむわ。」
「決して捨てたわけではないと…伝えたかった。」
「そうね。」
芳樹の瞳に映ったのは、深い海の色。
心の哀愁の凪。
すべてを捨ててしまった男の自画像が、そこにはあった。
亜希子は自分の才能を愛し、破滅していくこの男と運命を共にしようと思っていた。
「帰るところが、私達にはもうないわ。」
凛とした強い瞳が、灰色の砂を握る手を映す。
亜希子は絵の具のことを考えていた。
「絵を描く道具しか、持ってないの。」
芳樹は亜希子の指から零れる砂を舐めた。
「それだけあればいい。」
冬の鴎が孤を描く。
亜希子は髪をかきあげる。
「筆があれば、描けるものね。」
もう家には帰らない。帰れない。
どこかでわかっていた。2人は敢えて口にはしなかった。
寝る処も、食べる処も、まして描く処などない。爛熟した卵が息をする。「ここは何処かしら?」広がる蒼の景色を前に、棺の夢を見る。
芳樹はうっすらと不気味に呟いた。
亜希子の恋の中枢は、活動する。脳にドーパミンが、送られる。
こんなに年老いた優しい男をひとりぽっちには、できない。
芳樹は80を過ぎた老人。亜希子は25になったばかり。
2人は1枚の絵で結ばれていた。
美術学校の生徒と講師。許される恋ではなかった。
亜希子の描いた一枚の自画像が2人の運命を結びつけていた。
亜希子は自分のヌードしか描かない。どんな猥褻な姿も惜しまず描いた。2人は恋に墜ちた。
肉体関係はない。
あるのは、地上の愛。
揺れる言の葉。
煌めく瞳。
亜希子は誰も居ない、静かな海で芳樹を抱きしめた。
微かに残る白髪を愛しそうに撫でる。
それに反して、亜希子の長い漆黒の髪が風になびいた。
永遠を感じた。
ただ静かに閉ざされた愛が、ここにはあった。
なまめかしくも、白い指が、芳樹の皺を寄せた唇に触れる。
「何も言わないで。」
時が止まる。
汚れた緑の波は、寄せては返し、永久運動を続ける。
蒼空は澄んでいた。
「孫に手紙を書いたんだ。」
「そう。」
亜希子はそっと指を離し、芳樹の暗い瞳を見た。「…こんなこと、喜べないわ。」
「私が決めたことだ。」2人は地の果てに、来ていた。
誰にも何も告げずに。
「心から…愛していると、伝えておいた。」
「お孫さんも、哀しむわ。」
「決して捨てたわけではないと…伝えたかった。」
「そうね。」
芳樹の瞳に映ったのは、深い海の色。
心の哀愁の凪。
すべてを捨ててしまった男の自画像が、そこにはあった。
亜希子は自分の才能を愛し、破滅していくこの男と運命を共にしようと思っていた。
「帰るところが、私達にはもうないわ。」
凛とした強い瞳が、灰色の砂を握る手を映す。
亜希子は絵の具のことを考えていた。
「絵を描く道具しか、持ってないの。」
芳樹は亜希子の指から零れる砂を舐めた。
「それだけあればいい。」
冬の鴎が孤を描く。
亜希子は髪をかきあげる。
「筆があれば、描けるものね。」
もう家には帰らない。帰れない。
どこかでわかっていた。2人は敢えて口にはしなかった。
寝る処も、食べる処も、まして描く処などない。爛熟した卵が息をする。「ここは何処かしら?」広がる蒼の景色を前に、棺の夢を見る。
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