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流狼−時の彷徨い人−

[573]  水無月密  2009-09-06投稿
「三郎様、もう少しの辛抱です。この山を越えればもう越後の地です」
 わずかな月明かりを頼りに山道を急ぐ後藤半次郎は、手をひく少年を気遣って言葉をかけた。少年はまだ十歳にも満たない幼子で、その小さな体では山中の強行に耐えられるはずもなく、息が目に見えて乱れていた。
「三郎様、我が背にお乗り下さい」
 見兼ねた半次郎がしゃがんでそう促したが、三郎はそれにかぶりを振ってこたえた。
「疲れているのは半次郎殿も同じはず、あなたにばかり苦労をかけるわけにはいきません」
 三郎は疲れた顔に屈託のない笑顔をうかべた。
 三郎は大名家の子息であった。それ故に人から傅かれるのがあたりまえになっていたが、三郎に横柄さは微塵もなく、その心中には相手を思いやる無尽蔵の慈悲の心を宿っていた。
半次郎はこの心優しき少年が堪らなく好きだった。だが、その性格故に三郎は実の父親から命を狙われていた。

少年の名は武田三郎。父は最強の騎馬軍団を駆使して戦国の世を席巻した甲斐の虎、武田晴信<後の信玄>である。
晴信は三郎の優し過ぎる性格が、戦国の世には不向きなものと考えていた。さらに三郎は八歳にして孫子の兵法をそらんじるほどの賢明さを兼ね備えていた。その性格と才能が共存する以上、いずれは己に仇なす存在になると確信した晴信は、秘密裏に我が子を葬り去ろうと画策した。
 その策略を知った重臣の一人が三郎を憐れみ、義の人である越後の長尾景虎<後の上杉謙信>に託そうと考え、景虎に縁があった半次郎に白羽の矢をたてたのだった。
 本来なら武田家の家臣ではない半次郎であったが、その重臣に恩があった彼はこの依頼を受け、今にいたっていた。

再び歩きだそうとした時、不意に闇の中から松明の明かりが現れた。それは信玄が放った追っ手のものだった。
 視覚で確認できた刺客は三人、そのうちの一人が周囲仲間を呼ぶべく叫ぼうとした刹那、一蹴りで間合いをつめた半次郎の刀が男の喉元を切り裂いた。
 残りの二人はすぐさま身構えたが、刀に手がかかるよりも先に半次郎の刃が二人の喉元を貫いていた。

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