桜花
「お客さん,帰んな?作り笑いに付き合ってもらったって,楽しかねぇんだよ,なぁ?」
大将はこちらに目もくれぬままそう言う。ついさっき切ったという親指の痛みもあってか,声色は険しい。
カラカラカラと氷を踊らせながら,私の肘先の隣で焼酎が注がれる。
「お前,いくつだっけ?」
私が質問に答える前に,大将の静かな「はい」の声と紫蘇巻きが差し出される。
「これが上手いんだよなー,ほれお前も食え。」
皿を受け取った右手で箸を取るように促される。
「大将は,人を見るだけでその人のことがわかる。こういう,仕事だからな。居心地の良い塩梅を知ってる。」
紫蘇巻きを頬張りながら,大将に目配せを送っている。
大将は少し口元を緩ませながら相槌のように頷いていた。
大将とは同級生だと言っていた。
今晩,大将は年末間近にケガした親指を庇い,早々に店終いをしていた。
既に暖簾を締まった後,店内は真っ暗だった。今もカウンターだけ灯してある。
明日の仕込みもまだ途中だったらしい。それでも急遽帰国したこの人,庄司卓也を躊躇いもなく出迎え,腕を振るっている。その傍らで,何やら強張った笑顔をした私に,静かな罵声を浴びせている。
和人のことを考えていた。
和人と別れたのは,つい2週間ほど前のことだ。
別れを切り出したのは和人からだった。
「有佐のこと今も好きだよ。それはいまでも変わらない。自分にとって最後の恋だと思ってた。でももっと好きな子ができたんだ。有佐にも喜んでほしい。」
まだ和人のセリフは1字1句間違わないで思い出せる。あの時の頬を赤らめ照れ臭そうな顔と,木枯らしに擽られ私の鼻を「赤い」と突いた指,いつもの寂しそうな眼差しは変わらないのに,私が背を向けるまで視線を外そうとはしなかった。
「ウサ」
大将の静かな罵声にも,自分の質問にも,視線すら返さない私を見かねたのか,庄司が呼んだ。
それが自分の"名前"だと思い出すのに時間が掛かった。
「はい,…あ,作り笑い…?」
「ウサ,話聞いてたのか」
庄司が呆れた顔をしながら,カッカと笑い焼酎に口付ける。
「ウサさんて言うの?そのまんまな名前だね。見るからに寂しそうだもの。」
大将は声だけ大袈裟に驚いてみせ,嫌味のない口調のまま嘲笑する。
私は「ひっどーい」と声だけで傷んだフリをするのが精々だった。
和人と別れてからの2週間,ほとんど眠らなかった。
作り笑いと言われたって否定出来ない。
大将はこちらに目もくれぬままそう言う。ついさっき切ったという親指の痛みもあってか,声色は険しい。
カラカラカラと氷を踊らせながら,私の肘先の隣で焼酎が注がれる。
「お前,いくつだっけ?」
私が質問に答える前に,大将の静かな「はい」の声と紫蘇巻きが差し出される。
「これが上手いんだよなー,ほれお前も食え。」
皿を受け取った右手で箸を取るように促される。
「大将は,人を見るだけでその人のことがわかる。こういう,仕事だからな。居心地の良い塩梅を知ってる。」
紫蘇巻きを頬張りながら,大将に目配せを送っている。
大将は少し口元を緩ませながら相槌のように頷いていた。
大将とは同級生だと言っていた。
今晩,大将は年末間近にケガした親指を庇い,早々に店終いをしていた。
既に暖簾を締まった後,店内は真っ暗だった。今もカウンターだけ灯してある。
明日の仕込みもまだ途中だったらしい。それでも急遽帰国したこの人,庄司卓也を躊躇いもなく出迎え,腕を振るっている。その傍らで,何やら強張った笑顔をした私に,静かな罵声を浴びせている。
和人のことを考えていた。
和人と別れたのは,つい2週間ほど前のことだ。
別れを切り出したのは和人からだった。
「有佐のこと今も好きだよ。それはいまでも変わらない。自分にとって最後の恋だと思ってた。でももっと好きな子ができたんだ。有佐にも喜んでほしい。」
まだ和人のセリフは1字1句間違わないで思い出せる。あの時の頬を赤らめ照れ臭そうな顔と,木枯らしに擽られ私の鼻を「赤い」と突いた指,いつもの寂しそうな眼差しは変わらないのに,私が背を向けるまで視線を外そうとはしなかった。
「ウサ」
大将の静かな罵声にも,自分の質問にも,視線すら返さない私を見かねたのか,庄司が呼んだ。
それが自分の"名前"だと思い出すのに時間が掛かった。
「はい,…あ,作り笑い…?」
「ウサ,話聞いてたのか」
庄司が呆れた顔をしながら,カッカと笑い焼酎に口付ける。
「ウサさんて言うの?そのまんまな名前だね。見るからに寂しそうだもの。」
大将は声だけ大袈裟に驚いてみせ,嫌味のない口調のまま嘲笑する。
私は「ひっどーい」と声だけで傷んだフリをするのが精々だった。
和人と別れてからの2週間,ほとんど眠らなかった。
作り笑いと言われたって否定出来ない。
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