幻想怪奇談 1
あそこには、何かがいる。
私はそんな気がしてならなかった。
その家は私が幼い頃から既に古くて、触れただけで自分まで侵食されるのではと思うほどのあばら家だった
庭は荒れ放題、窓は所々われているのをガムテープで補強している。
屋根瓦はいびつに配列されていてあろうことか、雑草まで生えていた。
人は住んでいるのかも解らず、強風に倒れないでいることが奇跡のような、そんな家だ。
窓という窓は、磨りガラスで外側から内側を知るすべはない。
子供の時分では情報も入らず、ただ、そこにある廃墟という存在に過ぎなかった
が。
私はどうしてもその家が廃墟には思えなかった。
通学路の横にある為にどうしても通らねばならない家だが、行き過ぎる度に何か…得体の知れない何かで引っ張られるような感覚がしていた。
そう、まるで見えない蜘蛛の糸が身体中にまといつくような。
あるいはおぞましい触手に絡みとられるような。
だから私は極力、目をまっすぐに保ち、家を見ないでやりすごした。
早足になっても決して走らない。
走れば何かが追ってくるかもしれない。
私は何度、手の中の汗をスカートで拭っただろう。
あの家は、私を捕まえようとしている。
そんな妄想じみた考えを高学年になってもなお、持ち続けていた。
しかしそんなある日、のっぴきならない事態に追い込まれてしまう。
母に夕飯の買い物を頼まれた私は、小さなポーチにお金を入れて商店街へ向かっていた。
頭のなかはその頃流行っていたアイドルの歌が回っていて、それに合わせてポーチの紐をぐるぐる指で廻していたのだ。
が、あの家に差し掛かった途端に例のゾッとする感覚に身がすくんで…ポーチは勢い余って家の門の向こう側に入ってしまったのだ
私は愕然とした
よりによって、あの家に入ってしまったのだ
まず考えたのは諦めること
母に怒られるのは承知で家に逃げ戻るのだ。
理由なんていくらでもでっちあげればいい。
が、問題はポーチだ。
そのポーチには私の名前が書いてある。
理由はわからないが、私は自分の持ち物がこの家に置かれ朽ちて行くのが堪らなく嫌だった。
漠然とした嫌悪としかいいようがない。
震える足で、門と言うよりは粗末な板切れをつなぎあわせた代物の前に立った。
あのポーチを救い出さなければ
そんな使命感が、私の中のなけなしの勇気を奮い立たせた。
門の横の薄汚れたチャイムを鳴らすが勿論、壊れているようだ。
そもそも誰も住んでいないのだろうから、意味はない
私は迷いを振り切るようにぐっと板を押し開けた。
ポーチはすぐそこらにあるに違いない。
私は辺りを見回したが、真っ赤なポーチは影も形もない。
どういうわけか、ないのだ
私はさらに奥へと進み、玄関を回り込んで庭へと足を踏み入れた。
そこは雑草が膝丈程も生え揃い、錆で覆われた物干しがわびしく風でたわんでいた。
…あった!
なんとポーチは庭のど真ん中へ投げ出されていた。
今ならそれがどれだけ不自然か解る。
どんなに力が入っていてもあんなあり得ない方向にポーチが飛ぶわけはない。
しかし子供だった私は見つけた安堵感からすぐさま駆け込み、ポーチを拾い上げた。
そして無我夢中でしっかりと紐を肩に通し、走り出ようとした。
カツンカツンカツンカツンカツン
奇妙な音に、私の足は止まった。
カツンカツンカツンカツンカツンカツンカツン
一定のリズムで何かを叩く音。
見てはいけない。
いけないのに…。
私は、目が、その音に誘われ…さ迷うのを止められなかった。
物干しの向かい側は、縁台だった。
磨りガラスにぼんやりと映っているのは始め、自身の白いワンピースだと思っていた。
が
それが間違いだとすぐに気づいた
それは磨りガラスに浮かぶ「向こう側」の影だった
不意に
割れて隙間を接いでいたガムテープが
内側から剥がされていく
その間も私は動けずにいたのだ
テープは剥がされ、それによって支えられていたガラスはサッシから半分ほど落ち、割れた。
向こうから覗いていたのは
赤い女の顔だった
カツンカツンカツンカツンカツンカツンカツンカツン
真っ赤な女は…目の中まで全てが紅い。
私は呆然と凝視していた。
赤い女は内側から窓ガラスを爪で弾いている
カツンカツンカツンカツンカツンカツンカツンカツン
女は口を開いて…そこからどす黒い血液が吐き出された瞬間、私は我に返った。
猫から逃げる鼠さながら、飛び出した。
走って、走って、息が出来ないほどに走って
私は自宅に駆け込んだのだ
息せき切って部屋に走り込んだ私を見て、母は息をのみ
悲鳴をあげた。
そのとき私ははじめて気づいたのだ。
自分の白いワンピースの半分が血まみれだったことに
その血は私のものではなく
ポーチから滴っていたのだ
知らずに肩にかけ走っていた最中にワンピースじゅうに鮮血の染みを作っていたのだ
母は私が大怪我をしたと思い込み、恐怖の叫びをあげたのだ…
そして時がたち
大人になった今でも
私はあの日の夢を見る
あの女は何を伝えたかったのだろうか?
なぜ、爪で窓ガラスを弾いていたのか?
殺人現場だったという噂をのちに聞いたあと
それなりの仮説を立てることは可能に思えたが
私は真相をしりたくはなかった
意気地無しと思われてもいい
そう、私はあの
赤く…顔中を血で染めた女が怖くて堪らなかったのだ
なぜなら、あの一瞬
私が逃げ出すその一瞬に
彼女は間違いなく笑ったのだから
もしも彼女が、被害者ならば
笑ったりするだろうか…
あのような禍々しい血の海に沈んだ両目に
醜悪な笑顔が浮かぶだろうか…?
答えを知るつもりはない
知りたくはない…
永久に。
私はそんな気がしてならなかった。
その家は私が幼い頃から既に古くて、触れただけで自分まで侵食されるのではと思うほどのあばら家だった
庭は荒れ放題、窓は所々われているのをガムテープで補強している。
屋根瓦はいびつに配列されていてあろうことか、雑草まで生えていた。
人は住んでいるのかも解らず、強風に倒れないでいることが奇跡のような、そんな家だ。
窓という窓は、磨りガラスで外側から内側を知るすべはない。
子供の時分では情報も入らず、ただ、そこにある廃墟という存在に過ぎなかった
が。
私はどうしてもその家が廃墟には思えなかった。
通学路の横にある為にどうしても通らねばならない家だが、行き過ぎる度に何か…得体の知れない何かで引っ張られるような感覚がしていた。
そう、まるで見えない蜘蛛の糸が身体中にまといつくような。
あるいはおぞましい触手に絡みとられるような。
だから私は極力、目をまっすぐに保ち、家を見ないでやりすごした。
早足になっても決して走らない。
走れば何かが追ってくるかもしれない。
私は何度、手の中の汗をスカートで拭っただろう。
あの家は、私を捕まえようとしている。
そんな妄想じみた考えを高学年になってもなお、持ち続けていた。
しかしそんなある日、のっぴきならない事態に追い込まれてしまう。
母に夕飯の買い物を頼まれた私は、小さなポーチにお金を入れて商店街へ向かっていた。
頭のなかはその頃流行っていたアイドルの歌が回っていて、それに合わせてポーチの紐をぐるぐる指で廻していたのだ。
が、あの家に差し掛かった途端に例のゾッとする感覚に身がすくんで…ポーチは勢い余って家の門の向こう側に入ってしまったのだ
私は愕然とした
よりによって、あの家に入ってしまったのだ
まず考えたのは諦めること
母に怒られるのは承知で家に逃げ戻るのだ。
理由なんていくらでもでっちあげればいい。
が、問題はポーチだ。
そのポーチには私の名前が書いてある。
理由はわからないが、私は自分の持ち物がこの家に置かれ朽ちて行くのが堪らなく嫌だった。
漠然とした嫌悪としかいいようがない。
震える足で、門と言うよりは粗末な板切れをつなぎあわせた代物の前に立った。
あのポーチを救い出さなければ
そんな使命感が、私の中のなけなしの勇気を奮い立たせた。
門の横の薄汚れたチャイムを鳴らすが勿論、壊れているようだ。
そもそも誰も住んでいないのだろうから、意味はない
私は迷いを振り切るようにぐっと板を押し開けた。
ポーチはすぐそこらにあるに違いない。
私は辺りを見回したが、真っ赤なポーチは影も形もない。
どういうわけか、ないのだ
私はさらに奥へと進み、玄関を回り込んで庭へと足を踏み入れた。
そこは雑草が膝丈程も生え揃い、錆で覆われた物干しがわびしく風でたわんでいた。
…あった!
なんとポーチは庭のど真ん中へ投げ出されていた。
今ならそれがどれだけ不自然か解る。
どんなに力が入っていてもあんなあり得ない方向にポーチが飛ぶわけはない。
しかし子供だった私は見つけた安堵感からすぐさま駆け込み、ポーチを拾い上げた。
そして無我夢中でしっかりと紐を肩に通し、走り出ようとした。
カツンカツンカツンカツンカツン
奇妙な音に、私の足は止まった。
カツンカツンカツンカツンカツンカツンカツン
一定のリズムで何かを叩く音。
見てはいけない。
いけないのに…。
私は、目が、その音に誘われ…さ迷うのを止められなかった。
物干しの向かい側は、縁台だった。
磨りガラスにぼんやりと映っているのは始め、自身の白いワンピースだと思っていた。
が
それが間違いだとすぐに気づいた
それは磨りガラスに浮かぶ「向こう側」の影だった
不意に
割れて隙間を接いでいたガムテープが
内側から剥がされていく
その間も私は動けずにいたのだ
テープは剥がされ、それによって支えられていたガラスはサッシから半分ほど落ち、割れた。
向こうから覗いていたのは
赤い女の顔だった
カツンカツンカツンカツンカツンカツンカツンカツン
真っ赤な女は…目の中まで全てが紅い。
私は呆然と凝視していた。
赤い女は内側から窓ガラスを爪で弾いている
カツンカツンカツンカツンカツンカツンカツンカツン
女は口を開いて…そこからどす黒い血液が吐き出された瞬間、私は我に返った。
猫から逃げる鼠さながら、飛び出した。
走って、走って、息が出来ないほどに走って
私は自宅に駆け込んだのだ
息せき切って部屋に走り込んだ私を見て、母は息をのみ
悲鳴をあげた。
そのとき私ははじめて気づいたのだ。
自分の白いワンピースの半分が血まみれだったことに
その血は私のものではなく
ポーチから滴っていたのだ
知らずに肩にかけ走っていた最中にワンピースじゅうに鮮血の染みを作っていたのだ
母は私が大怪我をしたと思い込み、恐怖の叫びをあげたのだ…
そして時がたち
大人になった今でも
私はあの日の夢を見る
あの女は何を伝えたかったのだろうか?
なぜ、爪で窓ガラスを弾いていたのか?
殺人現場だったという噂をのちに聞いたあと
それなりの仮説を立てることは可能に思えたが
私は真相をしりたくはなかった
意気地無しと思われてもいい
そう、私はあの
赤く…顔中を血で染めた女が怖くて堪らなかったのだ
なぜなら、あの一瞬
私が逃げ出すその一瞬に
彼女は間違いなく笑ったのだから
もしも彼女が、被害者ならば
笑ったりするだろうか…
あのような禍々しい血の海に沈んだ両目に
醜悪な笑顔が浮かぶだろうか…?
答えを知るつもりはない
知りたくはない…
永久に。
感想
感想はありません。