純粋とは幻想に過ぎない
これは、確認なのだけれど、純粋さは幻想だ。
「自分は汚れている」「自分は不純だ」と感じてしまった人間に生じる思い込み。
例えば、子ども。時に純粋さの象徴と扱われる彼らだが、彼ら自身は自分のことを純粋だとは決して思わない。
彼らの笑顔に純粋さを感じるのは、それを見つめる私たちだ。
私たちが「子ども」というものを、勝手に何か高尚なものと位置づけ、名づけてるにすぎない。
子どもだって「自らの利益のために」打算的な笑顔を浮かべているのに。
赤ちゃんが笑顔を浮かべるのだって、そうしとけば周りが自分の世話をしてくれるから、という生存本能から来るものかもしれないのだ。
例えが悪かった気もするけれど、ともかく現実には「純粋」と呼べるものはない。
あるとすれば、ある個体の頭の中で、あるものの多くが捨象されて出来た何かだ。
「汚れた」モノの、自身の一回性の存在の中にある、不可逆な(拭い切れぬ)事実をもって価値づけられる何か。
意図的でありながら無意識、作為的なのにもかかわらず、至って自然のものと思えてしまう何か。
だからこそ、それに自覚的にならなくちゃいけないかも
「自分は汚れている」「自分は不純だ」と感じてしまった人間に生じる思い込み。
例えば、子ども。時に純粋さの象徴と扱われる彼らだが、彼ら自身は自分のことを純粋だとは決して思わない。
彼らの笑顔に純粋さを感じるのは、それを見つめる私たちだ。
私たちが「子ども」というものを、勝手に何か高尚なものと位置づけ、名づけてるにすぎない。
子どもだって「自らの利益のために」打算的な笑顔を浮かべているのに。
赤ちゃんが笑顔を浮かべるのだって、そうしとけば周りが自分の世話をしてくれるから、という生存本能から来るものかもしれないのだ。
例えが悪かった気もするけれど、ともかく現実には「純粋」と呼べるものはない。
あるとすれば、ある個体の頭の中で、あるものの多くが捨象されて出来た何かだ。
「汚れた」モノの、自身の一回性の存在の中にある、不可逆な(拭い切れぬ)事実をもって価値づけられる何か。
意図的でありながら無意識、作為的なのにもかかわらず、至って自然のものと思えてしまう何か。
だからこそ、それに自覚的にならなくちゃいけないかも
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