説教がしたい。
幸いなことかどうか、僕はまだ世間でオジサンと扱われない年齢なのだけれど、最近どうも他人に説教をしたい欲求が湧くことがある。
僕のイメージでは説教=オジサンという図式があるので、ならば、僕の心がオジサン化しているということか。
元来、人にズケズケとのを言うことが苦手な僕は多分に漏れず人見知りでもある。
だから、日頃、喉元に押し込めて抑圧している私的な感情を説教という形で吐き出したいかもしれない。
すると不満を昇華する方法がたくさんある中で、説教を選択する僕のセンスがオジサン化したのか。
立場と正論(じみたもの)で武装して、「お前のことを思って言ってやってるんだ」などと、仕方ないような面をしながら、ねちねちと自分の憂さ晴らしに終止する、人に迷惑をかける行為をやりたいだなんて……。
……いや、実際に説教される側にとってプラスになることだってあるし、純粋に人のための行為の場合もあるのは事実なのだろうけれど。
人に嫌がられる行為でも、その事を自覚しても、説教したいと思うのは、僕はオジサンではなく、まだ甘えたがりな青年であることの証左だと、信じたいなぁと思う。
キモいけど。
僕のイメージでは説教=オジサンという図式があるので、ならば、僕の心がオジサン化しているということか。
元来、人にズケズケとのを言うことが苦手な僕は多分に漏れず人見知りでもある。
だから、日頃、喉元に押し込めて抑圧している私的な感情を説教という形で吐き出したいかもしれない。
すると不満を昇華する方法がたくさんある中で、説教を選択する僕のセンスがオジサン化したのか。
立場と正論(じみたもの)で武装して、「お前のことを思って言ってやってるんだ」などと、仕方ないような面をしながら、ねちねちと自分の憂さ晴らしに終止する、人に迷惑をかける行為をやりたいだなんて……。
……いや、実際に説教される側にとってプラスになることだってあるし、純粋に人のための行為の場合もあるのは事実なのだろうけれど。
人に嫌がられる行為でも、その事を自覚しても、説教したいと思うのは、僕はオジサンではなく、まだ甘えたがりな青年であることの証左だと、信じたいなぁと思う。
キモいけど。
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