子どもは家を選べない〜その17〜
ここまで書いてきて、中傷の書き込も見つけたので、小説の分野から、問いかけを行います。
結衣子さんのモデルや、そこに出てくる家族は実際に、今、生きて、この世にあります。
これは、事実なのです。
ただ、昨今の日本社会は、隣の家で、このような事がおきていると、うっすら察していても、他人の家に入り込む事が躊躇されて、何かが起きてから、ああ、私、そんな気がしてたと口にするのが関の山です。
戦後の日本は、よくも悪くも、天皇家を背骨に、神道から来るような道徳規範を基準に生きてきました。
戦後、もてはやされた、プライバシーの尊重は、「個」を守ることが出来たかもしれない。
ただ、道徳規範を失なった世界では、他人が困っていても、本人が救いを求めない限り「個」の解釈が空回りして、警察ですら、事件がおこらない限り踏み込めない。
例え、事件が起きて、事が明るみになり、劣悪な状況から数名抜け出せたとしよう。
誰が、その劣悪な期間のフォローをすると言うのでしょうか?
家の中で起きる事は、本当に、外からは見えません。
子どもに至っては、幼いほどに生まれた家の環境が全てです。
虐待されている子どもは、それが、自分の家なんです。逃げることを思いつき、実行するには、まず、食料を自分で調達する力を身につけなければなりません。
生まれてくる子どもたちは、親も家も環境も選べません。
私は、縁あって、虐待にあっている親子が助けを求めてもらった事があります。
役所なんて、警察なんて、本当に、事件らしく見えない事に動いてくれません。
巡り巡って、お金のある宗教団体の施設に逃がしましたが、本人にあわずに、また逃げています。
こんなこと、させていていいのでしょうか!?
たまたま、このような拙文を多くの方々が読んで下さった中で、房子や千鶴子のような人間を排出してはいけないと思って頂けたら有難いです。
翔君が一刻も早く、自分がキーワードなのだと気付き、お母さんである結衣子さんと、新たな額に汗して世のため人の為生きたいと思ってくれたら、もう、人の忠告など届かないであろう、千鶴子さんと房子さんから距離をおいても良いように思います。
そこから、結衣子さんの静かな老後が始まるように思うのです。無くしましょう、虐待。
結衣子さんのモデルや、そこに出てくる家族は実際に、今、生きて、この世にあります。
これは、事実なのです。
ただ、昨今の日本社会は、隣の家で、このような事がおきていると、うっすら察していても、他人の家に入り込む事が躊躇されて、何かが起きてから、ああ、私、そんな気がしてたと口にするのが関の山です。
戦後の日本は、よくも悪くも、天皇家を背骨に、神道から来るような道徳規範を基準に生きてきました。
戦後、もてはやされた、プライバシーの尊重は、「個」を守ることが出来たかもしれない。
ただ、道徳規範を失なった世界では、他人が困っていても、本人が救いを求めない限り「個」の解釈が空回りして、警察ですら、事件がおこらない限り踏み込めない。
例え、事件が起きて、事が明るみになり、劣悪な状況から数名抜け出せたとしよう。
誰が、その劣悪な期間のフォローをすると言うのでしょうか?
家の中で起きる事は、本当に、外からは見えません。
子どもに至っては、幼いほどに生まれた家の環境が全てです。
虐待されている子どもは、それが、自分の家なんです。逃げることを思いつき、実行するには、まず、食料を自分で調達する力を身につけなければなりません。
生まれてくる子どもたちは、親も家も環境も選べません。
私は、縁あって、虐待にあっている親子が助けを求めてもらった事があります。
役所なんて、警察なんて、本当に、事件らしく見えない事に動いてくれません。
巡り巡って、お金のある宗教団体の施設に逃がしましたが、本人にあわずに、また逃げています。
こんなこと、させていていいのでしょうか!?
たまたま、このような拙文を多くの方々が読んで下さった中で、房子や千鶴子のような人間を排出してはいけないと思って頂けたら有難いです。
翔君が一刻も早く、自分がキーワードなのだと気付き、お母さんである結衣子さんと、新たな額に汗して世のため人の為生きたいと思ってくれたら、もう、人の忠告など届かないであろう、千鶴子さんと房子さんから距離をおいても良いように思います。
そこから、結衣子さんの静かな老後が始まるように思うのです。無くしましょう、虐待。
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