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流狼−時の彷徨い人−No.33

[452]  水無月密  2009-12-29投稿
 真紅の兜が二つに割れ、地に転がった。
 だが、信玄は絶命していなかった。
 彼の額を切り裂く寸前、半次郎が刀を止めてしまったからだ。

 小刻みに震え、脱力してその場に跪く半次郎。
 彼は思い出してしまった。
 初めて兵法書の一節を覚えた時、頭をなでてくれた父の手の温もりと、優しい笑顔を。
 その温もりと優しさがほしくて、幼少の半次郎は孫子を必死に覚えた。
 そして全てを諳じるまでになった時、皮肉にもそれが信玄の警戒心をよび、疎まれるようになってしまった。
 それは記憶の深層部に追いやられ、彼自身が忘れ去っていた出来事であった。


 半次郎の心は、完全に折れてしまった。
 今の彼なら、雑兵でも容易に切れるだろう。
「何故刀を止めた、貴様の信念とはその程度のものなのか?」
 信玄の言葉に体の芯を貫かれた半次郎は、項垂れたまま父を見れずにいた。
「かつてわしは甲斐の民衆を困窮から救うため、戦に明け暮れる父を国外に追放した。必要とあらば、あの時に父を切っていただろう。
 だがお前は情に流され、わしを切れなかった。その程度の覚悟で、全ての民衆を救えるなどと思い上がるな」


 床机から腰を上げた信玄は、ゆっくりと抜刀した。
「最後に一つだけ聞こう。その刀、どこで手にいれた?」
 半次郎が頭上で刀を止めた時、信玄はその刀が刃毀れ一つしていない事に気付いた。
 あれだけの激闘を支えた刀にしては妙だと感じた信玄は、その特異性に疑念を抱いていた。

「……この刀は恩人、後藤半次郎殿の形見刀だ」
 シャンバラの存在を知られたくない半次郎にとって、それが精一杯の抵抗であった。

 力無く答えた半次郎を暫し見つる信玄。
 周りの兵士達には、この光景が不思議なものに見えていた。
 半次郎は武器を手にしたままであり、早くとどめを刺さねば反撃されかねないのである。
 だが、信玄はそれを待っていたのかも知れない。


 動く気配の無い半次郎に見切りをつけると、信玄は刀を振り上げた。
『わし以上の将器を感じ、それ故に危険だと判断して武田から追い出したが、見当違いであったか……』
「信玄っ!!」
 信玄が刀を振り下ろそうとした瞬間、雷鳴の如き怒号が彼を遮った。
 急速に接近する一騎の騎馬武者、上杉政虎である。


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