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海上の道 <上>

[613] シナド 2011-02-18投稿
潮騒に混じる呼び声で目が覚めた。

「旦那さま、旦那さま…」
まだ夜が明けぬ暗闇の中、目を凝らして声の主を見極めると、一ヶ月前から行方がわからなくなっていた飼い猫のハルが枕元にいた。

「起きてくださいまし」

そのハルが口を利いている。
私は一瞬、行方のしれぬ老猫を心配し続けたせいでおかしな夢を見ているのかと思った。しかし肌を切るようなニ月の寒さはまさしく現実のものであるように感じられた。

「旦那さま、お別れの挨拶に参りました」

私は半ば起きあがり、目を丸くしてハルを見た。

ハルを拾ったのは十八年前、私がまだ駆け出しの物書きで、肩身の狭い思いをしながら実家で毒にも薬にもならない文章を書き連ねていた頃の話だ。
春雷が響く雨の日の夜のことだった。床下からみぃみぃと獣の鳴く声を聞いた。
だんだんと弱くなるその声に、私と当時まだ生きていた親父はついに床板をはがすことに決めた。
どこから潜り込んだのであろうか、痩せた虎猫が子猫を四匹産んでこと切れていた。
私も父母もできる限りを尽くしたが、子猫のうち三匹は助からなかった。

唯一助かったのは、明るい茶の虎縞で、口の周りと足先が靴下をはいたように白い雌の子猫だった。その子猫は親父にハルと名付けられ、私の家族となったのだ。


「幼少の頃より大事にしてもらった恩、あちらに行ってもけして忘れません」

ハルは私に向かって深々と頭を下げた。

するとハルの体が茫と光り出した。
あたたかな淡い光に包まれたハルの体に、十八年間の老いは微塵も感じらんない。
毛並みはつやつやとしていて、かつての若々しい姿に戻っているように感じられた。

「必ずまた会えますゆえ」

そう言うとハルは立ち上がって、すい、とわずかに開いた障子戸の隙間から出て行った。

私は呆気にとられポカンとしていたが、すぐに起き上がってハルの後を追った。

まろぶようにして家の外に飛び出すと、切りつけるような寒さに白い息がでた。
ハルよ、こんなに寒い日は、お前は私の布団に潜り込んで寝るものだったな。それを、ひと月も家に帰らず、私がどれ程心配したか―

私はハルの姿を探しまわった。海辺へと続く下り坂を下りていこうとする光を見つけ慌てて追いかけた。

坂の上から浜を見渡して私は驚愕した。浜辺から水平線まで、光輝く道が続いていたからである。

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