広野靖之がその車両に乗り込んだとき、中には『春』が広がっていた。
ある帰り道の話
午後5時23分、広野は山手線・新宿駅のホームに居た。営業が比較的早くに終わってしまい、持て余した時間を映画館で財布の中身と共にぶちまけた帰り道だった。
ちらと、ホームの時計に目をやった。先程より少し過ぎた、24分を示していた。
勿体無いことをした、と広野は思った。
妻がパートで出掛けている間、鍵を持たされていない広野は家に入ることができない。そこで時間潰しにと、ほとんど適当に選んだ映画館だったが、それがまた良くなかった。
丁度その時間に上映していたのは、最近流行の韓国映画だった。ふたりの男女が、重い病を乗り越え結ばれる。そんな純愛の溢れ出しそうなドラマを、広野は見るともなく見ていた。
いや、ほとんど寝ていたかもしれない。あまりにもあからさま過ぎたその内容を、どれだけ頭を捻ってもあからさまだったということ以外は思い出せなかった。
そのくせ、ただでさえ陽の目を見ない財布から、しっかりと大人料金だけを抜き取られたのだからたまったものではない。こんなことならばさっさと家に戻って、馴染みの喫茶店にでも寄っておくべきだった。