ケイコと別れたのは、この小さな駅のホームだった。いや、本当のところを言えば、上嶋は今でも別れたつもりはない。だからこそ、こうして毎日欠かさず迎えに来ているのだから。
二人で温泉地へ旅行へ行った帰りだった。蝙蝠の飛び交う夕暮れ時で、窓越しにそれを見たケイコが、初めて見たと喜んでいたのを覚えている。やがて駅に着いて、電車のドアが開いて、寒いねなどと笑い合いながら電車を降りた。
降りたのは、上嶋だけだった。
振り返ると、ケイコはいつもの笑顔で上嶋を見ていた。
ケイコ、と名を呼んだ。電車出ちゃうよ? と言った。それでも彼女は、静かに優しく微笑んでいた。
ぷしゅ、という気の抜ける音とともにドアが閉まった。濁ったガラスの向こうで、やはりケイコは美しく微笑んでいて、その笑顔に上嶋は後追いの一歩を踏み出せなかった。
ケイコは何も言わなかった。最後まで笑顔を崩さずに、上嶋の前から姿を消した。
理由は全く分からなかった。分からなかったからこそ、上嶋にはどれだけ時がたとうとも、ケイコの居ない事実を信じることができなかった。いつかひょっこりと、またあの笑顔で帰ってくるような気がしてならなかった。
ケイコが居なくなってから、上嶋は学校を卒業し、町には新幹線が開通した。たった数年の間に、この町は大きく様変わりした。
だが、ケイコが新幹線で帰ってくるとは思えなかった。これも根拠がないとは分かっていたが、居なくなったあの日と同じ、この寂れた沿線にしかケイコを連れてくることはできないように思えた。
ガタゴトと重い音を立てて、色の禿げた電車がホームへ入ってきた。吐き出された人の中に見覚えのある黒髪はなく、上嶋は星の数ほど洩らしたため息の記録をまたひとつ更新した。
だが、そのため息の中に悲痛の色は含まれていなかった。当然である。上嶋の中で、ケイコはいつか必ず彼の元へ帰ってくるのだから。
中身を吐き出して軽くなった電車は、再びガタゴトと出発した。鈍くかがやく鉄の箱は、少しずつ遠く、小さくなっていって、やがて消えた。