電話を切ったあとも、由佳は動けずにいた。バスルームの出しはなしにした湯があふれ落ち、こじんまりしたリビングへと水音が響く。つけたままのテレビにはいつも通りタレント出身のニュースキャスターが、政治家の汚職をしかめつらしい顔で伝えている。さっきまで、なんのことはない平日の疲れた夜だったのに、由佳は遠い過去の時間に引き戻されていた。
…また、だ。これは一体、なんの冗談なのか。
骨董屋で手に入れた壁の古びた時計が、自らの思うにまかせない動きに苛立つように秒針を刻む。進んだ勢いに、小さく引き戻されることがもどかしい、そんな些細な、だが絶え間ない苛立ち。由佳の脳裏に、「彼女」の言葉がよみがえる。
「あんたは私で、私はあんたなの?なぜ?やめて、もうやめてよ。私の時間も人生も私のものよ。あんたなんてもう、消えて欲しい」
体育館の裏、びしょ濡れになったまま、涙とも雨ともつかない雫が、彼女の頬を流れていた。由佳はその姿を不思議な、同時に冷え冷えとした気持ちで見つめていた。
(私が泣いている。だけど、私はこんな風に泣けるだろうか)
彼女の泣き顔に魅せられたように、オレンジの傘の下、由佳は動けなかった。体の中までも突き抜ける雨音が傘を叩く。彼女の嗚咽が由佳を打つ。8月の雨は、2人のようやく釣りあっていたバランスをすべて破壊した。もう二度と元には戻れないなら、何もかも消し去ってやるとでも言うように彼女は、その雨の激しさで泣いていた。
「ママ、お風呂沸いたよー」
突然、小さな手のひらが、肩を揺らす。
びっしょりと汗に濡れた携帯が滑り落ちる。