谷澤くんとデートの約束をさせられてから、
私は鬱々として、もの思いにふけっていた。
彼の話にも生返事をしたり、ぼーっとしていて聞き返すこともあったりした。
「―――――いいかな?」
今もまた、彼の話を聞き逃してしまった。
「……え?」
「千里…って呼んでいいかな?」
彼は少しぎこちなく、それに恥ずかしそうに笑って言った。
「う、うん。」
思いがけない彼の提案に、それ以上言えなかった。
今まで名前で呼んでくれるのは、
家族とか親戚くらいだけで…
彼に名前で呼ばれるのは、嬉しいけれど、少しくすぐったかった。
「千里…も名前で呼んでくれない?」
「…………」
思わず彼に言葉を返すのを忘れた。
いつも呼んでみたいと思っていたから。
彼に心の中を読まれたのかな…なんて、バカみたいなことまで考えた。
でも、
彼は、私が無言なのは名前を覚えてないからだと思ったのか、
バツの悪そうな、それでいて少し落胆した表情を浮かべていた。
彼にそんな表情をさせてしまったことに私は後悔した。
―――弘人くん。
彼の名前は初めて聞いた時から
忘れたことは一度もなかった。
ずっと好きだった彼の名前を忘れるなんてありえない。
私がずっと彼に片思いしていたこと、まだ気付いてないのかな…
「……弘人くん。」
私は小さい声で彼の名前を呼んだ。
初めて呼んだ彼の名前。
自分でも不思議だけど、目が潤んできて涙が出そうになった。
「……弘人くん。」
もう一度呼んでみた。
彼は嬉しそうな笑顔を見せて、そっと手を握ってきた。
少しためらってはいたけれど、ゆっくりと顔を近付けてきた。
「弘人くん。」
―――たとえ、あなたが誰を好きでも、
私はあなたのことが好きだから……
想いが伝わるように、私は目を瞑って彼のキスを受け入れた。