北海道の余市というちいさな町で生まれた。
海が近く、毎日海をみていた。
三人兄弟の次男坊である俺はいつも兄貴のあとばかりくっついていた。
親父は大工で母親は兄貴を出産の際に看護婦をやめた、裕福ではないがごく普通の家庭だったように思う。
少しずつ歯車が狂い始めたのは、俺がたしか3歳のときに札幌に引っ越してきてからだろう。
引っ越した理由はなんだったのかはよくわからないが。
親父はギャンブルにハマり仕事もいかず毎日のようにパチンコ屋。専業主婦だった母親もパートへいくようになり、借金返済に追われるようになっていった。
それでも札幌にきてから弟が生まれたくらいだから、夜の営みはあったんだれう。
ただ弟が出産のときには親父はもう家にも帰ってこない状態だったから、おそらくこのときに母親は離婚を覚悟していたのだろう。
俺が小学校にあがる頃にはもう親父の姿を見なくなっていた。
無口でなまっていた声と背中の入れ墨、パンチパーマ、俺には親父を思いだそうとしてもそれしか出てこない。
それから、生活保護を受けながら母親は昼も夜も休みなく働いた。
当時、生活保護というものはとても肩身の狭い思いをし、恥ずかしかったのか、母親とても嫌がっていた。
それでも運動会となればお弁当をもって見に来てくれていたし、子供の俺にはそのころの母親の苦労なんて感じることすら出来なかった。
兄貴が市内の高校へ行き、俺はスポーツの特待生で市外の私立へ行かせてもらった。弟は親父の姿すら知らず、母親っ子だったので資格をとってすぐ働くと市内の工業高校へと進んだ。
兄貴は卒業後、専門学校にいったが続かず、中退で家を出た。
俺も専門学校へ行き、その道で就職をした。
長くは続かなかったが…
そして一年もたたず、大黒柱の母親が癌でこの世を絶った。
享年47歳。
あまりにも早い死だった。
母親は俺が中学を卒業する頃、介護の仕事に転職していた。
片道一時間半もかけて職場に通っていた。
もともと看護婦だったから医療の仕事をしたかったのだろう。
資格もとって頑張っていたのに…
俺は生きる希望を失った。
わりきろうと思っても割り切れない。
なんでこんな道を歩んできた母親がここで死ななきゃいけないのかと。
これから楽になっていくはずだったのに…