真夜中。
私は車を走らせた。
思いはひとつ…海。
光りさえ吸い込む、漆黒の海が見たい…。
エンジンをかけた途端、騒音が鳴り響く。
夫の好きなバンドの歌。愛をがなる男の声に、私の白い手が一瞬震えた。落ち着いて…なんでもないことじゃない。
言い聞かせて、車に乗り込む。
即座にCDを取り出し猛スピードで走らせた車の窓から投げ捨てた。
パキィン、という金属音が微かに聞こえ、体の中が熱くなるのを感じた。
ああ…聞こえるのよ、海の音が。
私には聞こえていた。目を閉じればいつだって暗い海が横たわっているのだから。
ほんの少し鉄の匂いのする冷たい指を、頬の熱で溶かすように充てた。
もうすぐだわ
海が見えた。
いつの間にかハンドルを握っていた手に汗をかいていた事に気付く。
指は冷たいままなのに。
私は履いた記憶のない白いパンプスで、よろめくように海へと歩いた。
ああ、なんて美しいの…
圧倒的な存在感で私を包む闇。月、ましてや星など何ひとつ見えぬ真の闇のなかに…私は見た。
静かに凪いでいる波に、浮き上がる女の姿を。
女は凍りついている私を見つめた。
そして指を突き出し、叫んだ。
どうして、もっと早く逢いに来てくれなかったの今ではもう遅い!
見て、私の両手を…!
私は言われるがまま、海のなかで叫ぶ女の白い両手をみて、息を呑んだ。
輝くようにぬめる血液に覆われている…溢れ、とめどなく流れる…。
遅い…遅いわ…遅いわ…
泣き叫ぶ女の口から零れる呪文の響きは、いつしか私の唇から漏れはじめていた。
遅いわ…なにもかも遅かったのよ…
私の唇から、言葉は消え…代わりに微笑が浮かんだ。
海に呼ばれた…いいえ、違う。私は私に…私の良心に呼ばれたのよ。
けれど…そうね。
遅かったわ。
海に浮かんだ女は消えていた。
私は喜びで、体中から溢れる力に突き動かされ、笑った。
勝ったのよ。
私はもう海を見ずに済む
私は置いてきた車に戻った。
トランクを開け、小さな鞄に小分けされた夫を見た。
あの女は、私だった。
私の「ココロ」だった。
けれど今は私は自由…。月の光も太陽の輝きさえ怖くない。
私はもう何にも縛られはしない。
私は車を走らせた。
狂気という自由の中へ…