捨て犬を飼い始めたとき
彼女はいつも犬の名前を呼ぼうとしなかった。
[この犬、名前は何て言うの?]
犬を撫でながら気になってそう尋ねた。
[名前は、つけてないの]
[どうして?犬を飼ったら普通最初に名前をつけるんじゃないのか?]
[かわいそう、だから]
彼女は犬の隣にしゃがみこみ、犬のごわごわした背をゆっくりとなぜた。
[私はこの子のこと、全部知ってるわけじゃない。
私にはこの子に名前をつけて、勝手に縛るなんてことは出来ないし、
つけられたこの子も、かわいそうだと思ったから]
僕は彼女の言葉がわかるような気がした。
だけど
(他の犬と区別するためにはやっぱり名前は必要だ)
そう思ってしまう自分が嫌いだった。
だからこそ
彼女に惹かれたんだと思う。
[時間、そろそろだね。]
[そうだな、行くか。]
彼女の荷物で一番大きいやつをひょいと持ち上げると、僕は立ち上がった。
冷めたコーヒーを残して僕らは店を出て、ホームへの階段を一段ずつのぼる。
今日伝えたいことを、出発が決まった日からずっと考えていた。
でもどんな言葉も足りない気がした。
近いようで遠い距離。
彼女がこれから向かうのはそんな場所だった。
これぐらいの距離ならと思っていた僕に
これからは別々に生きていこうと、彼女はそう言った。
彼女と別れるなんて考えられなかった。必死で何とかしようとした。
でも僕はわかってしまったんだ。
彼女は自由に生きるべきだと。そんな彼女を、僕は好きになったんだと。
ホームにはもう誰もいない。
あと数分で新幹線は動き出す。
彼女は新幹線の中。
僕はホームの上。
このたった数cmの違いを新幹線が越えられないほど大きいものにまで広げてゆく。
僕は何の言葉も発することが出来ない。
ただ涙しか出てこなかった。
彼女が僕の涙をそっと拭う。
[自由に、生きて]
いつもの笑顔で笑う。
[自由なあなたが、好きだから。
ずっと好きだから。]
涙は止まらない。
[…自由な君が好きだよ。ずっと好きだよ]
涙で言葉が詰まる。
[自由に生きて、またいつかどこかで会いましょう]
[[ありがとう]]
僕が大好きだった人が扉の向こうに吸い込まれていく。
遠く見えなくなるまで彼女は笑みを絶やさず
僕はそれをただ静かに見送った。
僕たちは終わって、そしてまた始まった。