突然やってくる不幸。
それは例えば事故であり親戚や身内の死であり…または、望まない恋だ。
私は、今まさに打ちのめされていた。
明るい月に照らされた、真白い木蓮の花の下で、彼女は青白く微笑んでいた。
瀟洒な家の玄関に立ち、私を出迎えた彼女の全てが、私の「運命」を変えてしまった…。
神崎 小夜
小さい夜…彼女は月夜の精霊のようだ。
「先生、ようこそ」
銀糸を思わせる声に、内心震えが走った。
磨かれた黒い両目に吸い込まれるよう、ただ頷くだけの私がいた。
恋、とはかくも突然、やってくるものだろうか?
年齢も立場も何ひとつ障害にはならないのか?
私は汗ばむ手で画材の入った鞄を抱え、彼女に招かれるまま玄関へ足を踏み入れた。
そもそも、これは私の望まない偶然から生まれた結果だった。
私は50を前にして、グラフィックアートの世界から足を洗いたいと切に願っていたのだ。
ある程度名前の売れていた私は、妻と二人生きていける分の糧くらいは貯蓄してあった。
家のローンも終わり、あとは定年に向かうのみ…そんな状況で、全てに満足していた私は、もう要求がましいクライアントに嫌気がさしていた。
そんな時、私の恩人…売れない時代に世話になっていた代理店の主任、神崎 登が電話をしてきたのだ。
末娘が絵に興味があるらしい。
信頼している私に、是非家庭教師になって貰えないだろうかと。
私は、実際迷惑だった。
いくら恩人といえど、私をフリーター扱いするとは…と、侮辱された気さえしていた。
が。
私に断れる道理はない。神崎主任がいなければ、若かりし頃の私は食うにも困っていたはずだ。
そんなわけで、私は今、彼女を見つめるはめに陥っていたのだ。
「ごめんなさい、父が無理を言ったんですよね…こんな遅くに申し訳ありません」
古風とも言える発音が心地良い。
彼女は今時の少女たちに見られる浮いたところがなく、流れるようにしなやかで優雅だ。
「いえ…いいんです」
掠れ気味の声が零れ、咳ばらいをした。
「おお、来たか!すまないな」
私より遥かに早く戦線離脱している神崎 登は私の記憶より大幅に体積が増していた。
実に五年ぶりの再会にも関わらず、私たちの間には心配していた溝はなかった。
私は心からの笑みで彼の手を取り、力強く握りしめた。
「神崎主任…いや、神崎さん、お久しぶりです。変わりないですね」