私は世間で非常に穏やかな、分別を重んじる人間だと思われていた。
だが、それはむしろ幼い頃から激情しない性格を引きずった結果のような気がする。
私には何でも与えられていた。
私の両親は他に子を作らず、私は溺愛されていたのだ。
それを当たり前として受け止め、挫折も華々しい栄光も知らずに生きてきた。
妻である真紀子に出会ったのはイラストレーターとして駆け出しだったころだ。
目を引く美人ではなかったが、それなりに愛嬌があり、恋人というよりは何でも打ち明けられる友達に近かった。
友達は結婚して「戦友」になり、大きな喧嘩もなく最近では珍しいほど仲のいい夫婦として近所でも知られていた…あの時までは。
最近、どうして私があれほどに小夜を求めたのか考える。
小夜、という存在は水面に投じられた石だった。始めは小さな波紋が、時をおくにつれ、大きい影響を及ぼす。
月夜に照らされた小夜の美しさを思い出す度、それは幻影だったのだと首を振る。
小夜は実際、蛍光灯の下ではそれほど美しい少女ではなかった筈だ。
ひそやかな息づかいと、抜けるような、痛々しいほど白い肌。
地味で、例えば人を振り返らせるような容姿ではなかった。
それは彼女の魅力を少しも損なわなかったが、彼女にとって「自分の姿」とは何を意味していたのだろう。
ある日彼女は言う。
「先生…私、バレエをやっているの苦痛なんです…。でも踊るのは好き」
「それなら何が貴方を苦痛にさせるのです」
簡単よ、と彼女は笑う。
「鏡をみることだわ」
私は絵を教え始めてから初めて、彼女に触れた。
たゆたうような曲線を画いていたペンの上から、そっと…手を重ねた。
彼女の息がすっと音を立て、私を仰ぎ見た。
私は今でもこの時を思い出す…後悔しているのかと問いただすために。
その度に心は
いや、と即座に答える。
「先生」
吐息のように吐き出された言葉に、怯えたのは私の方だった。
すまない、何でもないんだ、と取り繕う私の唇に彼女の凍りつくように冷たい指がそっと宛てがわれた。
「知っていたわ…」
何を?と問う事は無意味だ。
彼女の唇が、迷うことなく、私の唇に重なった。
彼女の部屋という密室のなかで、私は漠然と考えていた。
私はいま、月の光を抱いている…と。
月。
それは狂気を意味する単語でもある。
私の運命はその進路を決めたのだろう。