「や…山口先生…」
翠はリノの言葉に、思わず柄を離した。
しかし。
それは先生であって先生ではなかった。
手をダラリと下げ、口は何かに驚いたように開いている。
両目は白く競りでて、赤い血管が脈打つ。
だが、何よりおぞましいのはその肌だ…それは腐った沼の色を思わせた。どす黒い、濃い紫。
深く刺さった柄に気付いているのか、ぎこちない動きで首を傾げ、絶え間無い金属音を喉から搾り出していた。
壮絶なパニックから立ち直ったのはリノだった。
「翠!離れて!」
コンマ一秒早く、奴が翠の首に伸びた…が、苦手な明かりにあたりすぎたのか苦し気な呻きを絶えず吐き出している。
それでも、もと野球部顧問だった男の腕の力は凄まじく翠の顔が早くも赤く染まり始める。
「離してよ…っ!」
ギギギ…ギッ…。
翠の唇から、飲み込めない唾液の筋が落ちる。
リノが躊躇ったのは一瞬だった。
(先生、ごめん!)
ザクッ!!
正確にけい動脈へと破片を振り下ろす。
ほんの少し指が緩み、リノは翠に体ごとぶつかった。
ギギギ…ギッ
元教師…学校のなかでも人気があった体育教師は戸惑うような呻きを残し後ずさった。
廊下に零れた明かりから逃れるように闇へと後退していく。
吹き上がった血液はリノと翠に降り注ぎ、ダルメシアンのような黒い斑点を作った。
「翠…翠、しっかり」
リノは渾身の力でぐったりと倒れている翠を扉から出来る限り引きずり離した。
激しく揺さ振る。
翠はゲエッという、身体の奥から何かを吐き出すかのような咳を何度か繰り返し、ようやくリノを見上げた。
「リノ…俺…先生を…」
リノは首を振った。安堵の涙が頬を伝う。
「違うよ、あいつは先生じゃない…翠…良かった…翠が死んだかと…」
震え、しゃくりあげた声を掻き消す金属音。
痛みに対する怒りが、あいつを怒らせている。
翠は咳こみながらリノの手を借り、起き上がる。
あと一時間半…。
「リノ、泣くな!…そうだな。あいつは先生なんかじゃねえよな。俺達は…行かなきゃ…」
「うん」
リノは鼻をすすって武器のない手で涙を拭った。泣いている暇はない。
「リノ、もしもどちらかが倒れて、奴に捕まったら…」
翠の手がぐっと力を増した。黒い血液で、二人の手も汚れている。
翠はリノをいきなり抱きしめた。
強く、強く抱きしめて…そっと離す。
「振り返るな!…玄関まで一気に走るって誓え」