トラウマを負った彼の記憶は、必死にそれを治そうとした。
具体的に言えば、母親のことを忘れようとしたのだ。
楽しかった事も
苦しかった事も
そして実際に、全てではないが、彼は母親との記憶を忘れていった。
他にどうしようもなかった、と言えば言い訳になる。
しかし、人間というのは都合よく造られている。
病気のところは治せばいい。その原因ごと消してしまえ。
つまりは、トラウマの原因となる、記憶ごと消してしまえ、ということ。
そう、そうして母親との思い出を消すことによって悲しみを乗り越えた。
もう、彼はあまり思い出せないのだ。
母が、どんな声だったか
どんな話をしていたのかさえも
辛くもあるが、仕方ない。
繰り返しになるけど、他に選択肢もなかったのだ。
生活は大きく変化した。
食事は祖母が作るようになり、他の家事も、家族全員(彼と兄、父親に父方の祖父母)でこなすようになった。
週末には、父方の伯母が来て、家事を手伝ってくれさえした。
そうして新たな生活に慣れていき、悲しみと共に記憶も薄れていったのだった。