猫は、月の無い夜でも、そのわずかな光を目の中で反射し活用することで、五里霧中の状態に陥らなくて済む。朝野くんが眠ってからまだ三十分と経(た)っていないのに、もうぼくにはこの場所が、さわやかな朝日が差し当たるベッドの下の真っ暗な空間にしか見えていない。残念なことにぼくは猫の目の能力を有していなかった。猫の真似をして、いたずらに黒目を大きくするばかりだ。これでは頭もぶつけかねない。
おい、おまえ! おれにケンカを売るのか。はっ! ばかやろう。調子をこくな。(まったく、むかつく奴だ。それに力も強そうだ。こりゃまずいな。一週間くらい筋トレしていないんだからな。ちっ、引き下がってくれないかな)おうし、こいよ! ぶっ潰(つぶ)してやる。正々堂々勝負だ!
むせび泣く声はせっかくの闇(やみ)を伝っていかず、落ちる涙もただ着古した衣服に染み入るだけ。純粋に幸福を求めて、なぜこうも欲しくもない無力感を抱かせられるのだろう。涙はいずれ清らかな山水となる。万一それが堰(せき)となって流れを遮断しないか心配だ。さっき朝野くんは「あ、汚ねえ奴!」とだしぬけに寝言を言い放った。その響きは、闇を漂う一つ一つの原子を破裂させながら、ぼくの耳に重く押し寄せてきた。今、首を絞められたかのようにのどが何かにつかえているような感覚がしている。ああ、朝野くん、汚いなんて言うな。涙が汚泥に塗(まみ)れた溝水に行き着くなんて、考えただけでも嫌だ、嫌だ!
おーう、いってえ・・・・・・。あのやろう、あんまりポコポコやってきてうるさいもんだから地面に押さえつけてやれば、往生際が悪い、まさかとは思うが実際かんできやがった。男の風上にも置けない奴だぜ。ちくしょう、まだ歯形が消えない。それからあいつ、おれが飛びずさって放してやると情けなく逃げていったが、なんせ執念深いことが長所と短所の取り柄のような奴のことだから、また性懲りもなくケンカ吹っ掛けにくるだろうな。ったく、めんどくせえ。