完全な黒。男はその様な完璧な黒を今まで見た事がない。その色が今、男を包んでいる。今自分がどの様な姿なのか、どちらが右でどちらが左か、目を開けているのか閉じているのかさえも分からない。ただ落ちている事だけは今自分が受けている風圧が教えてくれた。
男は考えていた。何故自分がこの様な状況に陥っているのか、そしていつから、どれ程の間こうして完全な闇の中で下からの風を感じているのか。
皮肉な事にこの完全な闇の中は考え事をするにはもってこいの状況であった。不思議とこのまま落ち続ける事によって引き起こる最悪な結末も気にはならなかった。
だが、いくら考えても男には納得のいく答えは見出だせなかった。それどころか自分が何歳でどういう人間でどういう人生を歩んできたのかすら思いだせない。
そんな中、突然男の前に一匹の猫が現れた。自分の体さえも認識できない状況の中何故かその猫だけは認識できた。男と共に落ちているはずのその猫は慌てる様子もなく毅然としてこちらを見続けている。
男は訳がわからずただその猫の様子を見守る事しかできなかった。するとその猫は突然男の方へ歩き出し、更に困惑する男に向かい一言呟いた。
「もったいない」