私は幼い頃から運動が苦手でだった。
今は武道をやっているが二十三歳くらいになるまではまともにスポーツをしたことがなかった。
あらゆるスポーツが上手くいかない。
とりわけ球技は最悪のジャンルである。
やっていて面白いと思ったことがない。
さらに努力が大嫌いで、上手くいかないとすぐに嫌になる。
つまり努力の嫌いな、いや苦手な私がスポーツを楽しむには、他の人がスポーツを練習し、そこそこ出来るようになり面白いと思えるまでのプロセスを他の人の何倍も努力しなければならないということである。
これはもう悲劇というほかない。
子供の頃は運動音痴のお陰で結構肩身の狭い思いをしてきた。
子供の頃は頭の良さより、運動が出来ることが絶大なステータスとなる。(だからって頭も良くないけど)クラスの人気者は大低足が速く、エースで四番、サッカーではエースストライカーという具合である。
私はというと、彼らを尻目に教室の隅で「なーんでわざわざ疲れることするかな」などと達観して、揚句は「人生はつまんねぇ」なんて知った風な口を叩いていたから困ったものだ。
そもそもスポーツほど不平等な世界はない
私の考えるスポーツの概念とは、ルールを設け、身長を揃え、体重を揃え、その他様々なファクターを均一化し、ウ゛ァーチャルワールドを創り出し、その中でより純粋な形で身体能力の優劣を競うというものである。
つまり、身体能力はスポーツをスポーツとして行うためのウ゛ァーチャルワールドを形成するファクターの一つとしてカウントされないのである、
ということは、いかにスポーツさんがルールを整備し、身長を揃え、体重を揃えて、「さぁ正々堂々やりましょう」とさそってくれても、身体能力が他者より劣る私にとっては、正々堂々でも平等でもないのである ルールが私を縛り、私の身体的パフォーマンスを低下させる原因である以上、その本質がルール無しのリアルファイトである武術に私が自己表現の場を求めたのは当然の帰結であったように思う。
では武道が何故スポーツより平等な世界なのか。
それは次回に譲るとする。