(ほう……)
その時僕は、花びらが宙をひらひらと漂っている映像をイメージした。
やわらかく、やさしく、そして……どことなく切ない調べ。
音の一つひとつが淡い色彩に姿を変えて、黄昏の空気にふわっと溶け込んでゆく様だ。
幾らかクラシックの嗜みがある僕には、それがショパンの【ワルツ第七番】の一節だとわかった。
あ、申し遅れたが、僕は小田嶋裕一。
妻の薫と共に先週この街に越してきたばかりの者だ。
念願のマイホームを(恐怖のローンで)手に入れる夢が叶い、海からほど近いこの地に引っ越してきた訳である。
引っ越し荷物の片付けに数日を費やし、やっと出掛けられるようになると、僕らは足の向くままそぞろ歩きを楽しむ事にした。
今日、珍しく早く帰宅できた僕は、たまたま海の方へと足を向け、先程の音色を偶然耳にした訳だ。
「あれ?…… 何でこんな所にネロがいるんだ」
ピアノの音色に誘われるように一軒の洋館まで辿り着いた僕は、我が家の愛猫ネロがその屋敷の門から入っていく姿を目でとらえていた。
『ネロ』とはイタリア語で黒を意味する単語だが、その名の通り漆黒のつややかな毛並みのオス猫である。
「暗闇でもわかる様に」と妻の薫がつけた蛍光ブルーの首輪が見えたから、まず間違いない。
ネロの入り込んでいった洋館はかなりの資産家の持ち家だったようで、実に堂々たる門構えである。
ただ、外から様子をうかがった限りでは、人の住んでいる気配がまったく感じられない。
(それなのに、なぜピアノの音がする?……)
好奇心にかられた僕は、折からのぼり始めた月の光を頼りに、ちょっとばかり覗いてみようという気になった。
つづく