私には全く不安はありませんでした。応募メンバーと競うのではなく、この会社が私を採用するかどうかだけでした。最後に到着した私は、面接も最後でした。面接会場に入ると、人事担当らしき人物を真ん中に3名の男性が着席していました。人事担当らしき男性が応募動機、家族構成など一般的な質問、左右の専門職らしき2人の男性はパソコンの知識など技術的な質問をしてきました。最後に右側の丸眼鏡を掛けた神経質そうな男性が、
「コピー機に紙を入れて、コピーを採る単純な作業ですが、それでも仕事を希望されますか?」
と、質問してきました。私は、
「宜しくお願いします。」
と、答えました。
採用の連絡はすぐに来ました。翌週の月曜日から来て欲しいとのことでした。
初出勤の日、採用されたのは私以外にもう1人、20歳代の青年でした。私は搬送耐久評価に、青年はソフト評価に配属されました。
本当に縁とは不思議なもので、私がこのメーカーのカメラを愛用していなければ、妻が私のカメラの製造会社名を覚えていなければ、嘱託社員として働いている今の私は無かったのです。
昭和40年4月、某市立小学校に入学しました。今の私からは想像できないくらい利発な子供だったようで、父は私を将来医者にするつもりだったと言っていました。但し、授業態度は必ずしも優等生では無かったようで、私の記憶では、真後ろに座っていた可愛い同級生の女の子ばかり見ていて、先生を見ていなかったようです。そんな事をしていても先生に指名されると正解を解答するので、先生にとっては非常に遣り難い児童であったに違いありません。テストの成績は抜群で、ほぼ満点の成績でしたが、この授業態度が災いして通信簿、つまり成績表は5段階評価の全て3評価でした。体育以外は5評価の成績をテストで取っていましたが、自分が何故3評価なのか子供には分かりませんでした。偉かったのは母で、そんな不当な評価にもかかわらす、教師及び学校に対して、一切の苦情を申し出ませんでした。小学校1年と2年は、この不当評価の女性教師でしたから、私の通信簿は1年と2年は全て3評価でした。
ところが、私より遥かにテストの成績が劣る、隣に住むPTAの役員の子供が全て5評価になっていたのには、子供心にも不公平さに憤りを感じていました。
つづく