第4章 働けど働けど
私自身は嬉々として仕事をしていましたが現実は厳しく、時給850円では生活は困窮を極めました。2003年の年収は147万5000円でした。手取りは135万円を下回っていました。働いても、働いても、生活は楽になりませんでした。
時給850円、年収147万5000円、始まりはここからでした。最初の1日は社員食堂で昼食を採りましたが、毎日500円程度の出費は生活に大きく影響し、そんな贅沢はできませんでした。毎朝、出勤途中にコンビニで100円のメロンパンを買って、昼休みに社内の自動販売機で100円の野菜ジュースを買って昼食にしました。この粗末な昼食を採る事が、最初は恥ずかしくて隠れるように食事していましたが、数日で慣れて、隠れるように食べる事を止めて、悠々と食事するようになりました。
『自分が稼いだ金で購入したメロンパンを食べる事に、何も恥じる所が無い。』
と、自分自身に言い聞かせて黙々と同じメロンパンを食べ続けました。
1日に使うのは、この200円だけと決めていました。そして、給料日だけ会社近くの牛丼屋に行って、味噌汁付きの牛丼並盛を食べる、それが、唯一の贅沢で、月一度の楽しみでした。働けど、懸命に働けど、毎日メロンパンと野菜ジュースの昼食で、夜10時過ぎまで、歯を食いしばって働いても、生活は楽に成りませんでした。
やがて、野菜ジュースも勿体なく感じ、使用済みのペットボトルに水道水を入れ、それが見えないようにペットボトルケースに入れて飲んでいました。
そんな極貧生活を送っていましたが、相変わらず私は仕事ができる喜びを噛み締め、仕事を与えてもらえる感謝の気持ちで心は満ちていました。私の心の中は喜びと感謝の気持ちで満ちていました。この事が後の幸運を運んでくれる事は、この時の私は知る由もありませんでした。
昭和46年4月、私立中学校受験に失敗した私は、家から徒歩で15分程の市立中学校に入学しました。
私の受験した私立中学校は中学卒業程度の学力が必要だったため、小学校を卒業時には既に中学校卒業までの学力は備わっていたので、中学での授業には、楽々ついて行けました。予習復習をしなくても成績は常に学年トップクラスに入っていました。余った時間を大好きなスポーツに打ち込む事ができました。
つづく