葉月

水無月  2006-05-19投稿
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「ねえ、遊んであげよっか。」
微かに発光する脳内の中の甘い言葉。僕の記憶の中で、彼女はその長い髪を揺らし、深い瑠璃色の瞳は夏の暑さを真珠のように反射した。その瞳に魅せられて、彼女がいる三番線の駅、自動販売機の前に僕は二年前から毎日来ている。ただ彼女に会うために。
彼女の住所も年齢も僕は知らなかった。ただ彼女の名前が「葉月」ということだけが、馬鹿みたいに僕の脳内をむず痒くさせた。
「私の名前、葉月っていうの、八月に生まれたから。単純でしょ?」
一度だけ彼女が笑った日。その事実がこの脳内を染めているのかは知らないが、僕ら確かに気がついたらその名前を反芻していた。
――八月に生まれた葉月。
――瑠璃色の瞳の葉月。
どうでもいい事実だったかもしれない、僕は一生彼女と結ばれなどしないのだろうし、決してその身体になど触れないと確信していた。
――哀しいけど、ゆるぎない事実だった。


三か月後、夏と共に彼女は消えた。
実はその時噂があった。この三番線の駅で若い女が飛び込みをしたとか、しないとか。
その噂を聞いた時僕は確信した。ああ、それは彼女なのだと、あの夏は彼女にとって最後の思い出になったのだと。

どうでもいい事実であって欲しかった。

でも僕は思い出した。それは遠くに聴こえる蝉の声、それは黄昏時の鼻に浸透する独特の匂い、それは切り取ったような入道雲。
五感の中の何処かが夏を感じる時、僕はいつも一番に彼女を思い出す。光をまとう海よりも、彼方に霞む空よりも鮮明な記憶を僕に与え、それから凛と笑って消える。

毎日見るのはそんな夢。

――葉月。


悟った。彼女は僕を本気で誘っていたのだと。あの深い瑠璃の瞳も長い髪も、全ては僕の為にあったのかもしれないと。

――葉月。

僕は君の名前しか知らない、だから何回でも君の名を呼ぼう。空に向かって、空の少し青の深い部分に君がいると信じて。


――葉月。


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