その日から、美樹は働き始めた。
なんといっても、屋敷の広さには驚かされる…掃除は月に一度、業者がやってきて隅々まで綺麗にしていく。
が、もちろんメイド達もやらなくてはいけない。なかでも大変な作業なのが、屋敷内外合わせて14名もの人形達の着付け。豪華なドレスや、華奢な作りのワンピース、時には美しい西陣織の着物など多岐にわたるが…これが非常に骨が折れた。
それでも美樹には苦痛には感じない。
マリアに触れるのは至福の時だった。
柔らかな髪を梳き、睫毛にかかる誇りを丁寧に取り除く。
美樹は毎日汗だくになりながら、必死で人形の世話をやいていた。
美樹が来てから二ヶ月が経ったある日、事件は起こった。
「これは…どういう事なの!」
メイド頭の竹内緑の悲鳴にも似た声で、屋敷内は騒然としていた。
美樹、その他すべてのメイドが廊下に並ばされ…例の厳しい目つきで竹内の視線に晒された。
「さあ、一体誰がこんな馬鹿げたことをしたのか説明なさい」
馬鹿げたこと。
しかし恐ろしく不気味な光景…。
十四体のマリア、全ての両目から血の涙が流れていた。
それは顎にまで伝い、容赦なくドレスまで汚している…。
11名のメイド達は互いの顔を見交わし、押し黙っていた。
その様子に苛立ちもあらわに竹内の声が高まる。
「私は十年ここで勤めていますけどね、こんなことは初めてです…これは藤堂様に対しての侮辱としか受け取れません」
間を置いて、竹内はじっと考え込むように11名のメイドを睨んでいたが…埒がないと踏んだか、唐突に話を打ち切った。
「今は一刻も早く塗料を落とすこと。それだけです。さあ仕事に…」
「塗料じゃありません」
一瞬空気が張り詰めた。
「なんですって?」
美樹は臆さず述べた。
「ですから、塗料じゃありませんわ。あれはマリアお嬢様の涙。違いますか?」
竹内は唖然として目の前の、自分より二回りも年の離れた小娘を見た。
「乙部さん…貴方の仕業かしら?」
美樹は首を振る。多少いらいらした口調で言い放った。
「誰の仕業でもないでしょう。あれはお嬢様の涙ですから」
竹内と美樹の目と目が絡み火花を散らした。
目を反らせたのは、竹内だった。
「愚図ぐずしないで仕事をなさい!」
吐き捨てるように言い放ち、身を翻した。