「私は当家の主(あるじ)小村壮吉と申します」
「いや、……勝手に上がり込んでしまいまして、何ともはや…」
「その事は別に宜しいんですよ。
ただ、お名前をまだ伺ってなかったもので」
「あ、はい、私、小田嶋裕一と申します。 これは家内です」
咲季から『老人ホームに行った』と聞かされていたご本人は、かくしゃくとしており、旧家の当主らしく品のある人物であった。
『壮吉、おだじまさんをいじめちゃダメでしょ?』
「いやいや、咲季姉さん、別にいじめている訳ではないんですよ」
小村老人は顔の前で左の手に否定の意を籠め、ゆるやかに振っていた。
それにしても、孫と言っても良い年ごろの少女を「姉さん」と呼ぶ老人の図は、何とも奇妙なものだ。
「こんな月夜は姉さんがピアノを弾いていると思いましてね」
小村老人の話によると、間もなくこの屋敷を取り壊す事になっており、姉である咲季にそれを告げるために立ち寄ったそうだ。
「実は右半身が利かなくなってしまいまして…
でも、姉さんとピアノは分け得ぬ一身ですので、どうしたものかと思案していたのですが……」
そこまで語った小村老人は僕らに穏やかな笑顔を向け、思いがけない事を提案してきた。
「小田嶋さん。 もし宜しければピアノを引き取って頂けませんか?」
「え!」『ほんと?』
我々夫婦と咲季は、同時に驚きの声をあげていた。
「ええ。 こう申して差し支えなければ、あなた方は本当の親子の様ですから」
咲季に「一人きりにはさせない」と約束した僕達に、異存などある訳がない。
ただ、妻の薫はそこでこんな事を言いだした。
「願ってもないお話ですけど… ねぇ、あなた?」
「え?何だい」
「……うちにグランドピアノって入るかしら」
「そ、それは……」
これも切実(かつ滑稽)な問題であった。