第10章 惜別
「もう、間に合わないだろう。」
心の中で呟きながら、故郷の病院へ急いでいました。こんな事になるのなら、もっと色々な話を聞いておけばよかった。様々な思いが私の心をよぎりました。平成7年、暮れも押し迫った12月の事でした。
「わしは、社会に貢献するために働いているんや。」
日頃から家族に公言していた通り、仕事中に倒れ、この言葉を最後に65年の生涯を閉じました。
この日、父は顧問公認会計士の事務所で経営について、会計士の先生からアドバイスを受けていました。
家を出る時、庭先に咲いているピンク色の花の鉢植えを見て、母に、
「赤色やったらええのになあ。」
と、言ったそうです。 母が
「ピンクかて可愛いでしょ、無理言うたらあきません。」
これが、父と母が交わした最後の会話になりました。
葬儀の朝、十数鉢の鉢植えの花は、父の望みが天に通じたのか、全て真っ赤に色を変えていました。
昭和5年5月、農作業で忙しい最中、農家の6番目、4男として父は生まれました。 本当の誕生日は、私と同じ5月20日辺りだったそうですが、農作業に追われ、役場への出生届が遅れ、戸籍上の誕生日は6月21日になっています。
子供の頃から、手が付けられない腕白で、5歳の頃、縫い針を踏み抜き、医者で治療を受けている時、
「痛い、痛い。」
と、騒ぐので、お医者さんが、
「男の子だろ、我慢しなさい。」
と、諫めると、
「痛いもん、痛いやんけ。」
と、食って掛かったそうです。
体が大きく、当時の尋常高等小学校、今の中学2年で、身長は168センチあり、運動と勉強は誰にも負けなかったそうです。
確かに、父の当時の成績表を見ると、全て甲が付いていましたが、教師の記述欄に、
『乱暴で、行動に問題あり。』
と、どの成績表にも記載されていました。
尋常高等小学校2年に、海軍航空隊予科練に合格し、昭和20年9月1日付で入隊が決まっていましたが、ご存知の通り、戦争は8月15日に終わり、父が戦闘機に乗る事は無かったのです。 もう1年、入隊が早ければ、特攻隊員として、命を落としていたかも知れません。
つづく