私の子供の頃のアルバムの写真に写っていますが、旧国鉄駅前に街頭テレビが設置されていて、テレビがまだまだ庶民には手の届かない高価な物であった頃、私の家にはテレビが在り、ステレオ、マツダのクーペとスクーターが在りました。その後、観音開きのクラウンに乗り換えました。 家一軒が150万円程度で建てられた時代、このクラウンは250万円だったと聞いています。
これほどの収入が有りながら、父は生涯、自分の家を建てませんでした。 私が高校生の頃だったと記憶していますが、この事を不思議に思って、
「どうして家、建てへんの?」
と、質問した事がありました。 父は、
「家は稼いでくれへんからな、家建てる金あったら工場たてるわ。」
この言葉の通り、昭和40年には県内に10工場、県外に3工場所有して、従業員数も120名を超える企業に成長していました。 会社の形態も株式会社とし、会社名も某株式会社と改めました。
その後、本社工場を残し、各工場に独立を許しました。 そのため、40歳を迎える頃には、県内の板金塗装業界を掌握していました。
41歳で県車体整備協同組合理事長に就任し、全国で初めて、車体整備協同組合会館を建設しました。 異なった個性が集まった中小企業の組合員の意見をまとめ、ベクトルを合わせて、全国初の快挙を成し遂げました。
父は決して商売上手ではありませでしたが、組織を纏め上げて行く能力には、秀でた物がありました。
「何で、各工場に独立を許したの? 自工場でやらしておく方が儲かるのに。」
私の質問に父は、
「他人の工場やと思うと人は頑張りよらん。自分の工場やとなると、人は必死で頑張りよる。 この業界を発展させるには、それぞれの工場に独立させた方がええのや。」
この言葉でも分かるように、父は商売での儲けより、業界の発展を優先して考えていました。
50歳を迎える頃、それまで近畿を取り仕切っていた京都の会長の勇退により、父は近畿車体整備協同組合連合会の会長に就任しました。
この頃の父は、中央監督官庁である運輸省との太いパイプを持ち、それまで近畿の田舎者扱いされていた某県を、中央組織、日本車体整備協同組合連合会でも、大きな発言力を持つ実力者として、注目される存在になっていました。 55歳には、日本車体整備協同組合連合会の副会長に就任しました。
つづく