樋泉杏華は苛立っていた。全身に怒気を漲らせ、夜の町を歩いていく。彼女の身体は血に濡れていて、体中から鉄錆にも似た臭いが発せられている。生き物の匂い。死んだものの臭い。存外嫌いではない。女性ということもあってか、元から血を見ることには慣れていた。最初はいくらかの嫌悪があった。恐怖も。だが慣れた。繰り返していくうちに薄れて消えた。
殺すこと。生きているものの活動を終わらせる。慣れてしまって、もう何も感じない。
例えそれがどんなに異常な事でも、何度も続けばそれは通常。だから、杏華にとって殺しはもはや日常だった。
そんな折、彼女の“飼い主”から連絡が入った。いつもの用事。殺しの指令だ。命令に従うのは好きではないが、奴は杏華の命を握っているのだ。従わないわけにはいかない。渋々指定地である学校へと向かった。その時もあまり機嫌は良くなかったが、思う存分殺す事で気分は晴れた。
彼女は殺しの後に、余韻に浸るのが好きだった。火照った体を冷まし、動くものの無くなった世界で静かに物思いに耽る。それは性交の後の気怠い感覚に似ているかもしれない。
それを不粋な闖入者に邪魔された。そいつは何も知らずにずかずかと彼女の世界に入り込み、身勝手な好奇心で汚したのだ。静謐な世界を。彼女の、聖域を。
殺すつもりだった。そのつもりで襲い掛かった。ナイフで突き刺した時は胸がすく思いだった。少しだけ興奮もした。そういえば人を刺すのは初めてだったな、と思い、初めての経験とその快楽に身を任せようとしたときだった。
……反撃を受けたのだ。手痛く、敗北を喫する程に。
幸い大した怪我はしなかったモノの、その事は杏華のプライドを酷く傷つけた。余裕ぶった態度を取ってみたものの、実はそれほど余裕があるわけでは無い。今すぐ取って返して息の根を止めてやりたい。それほどに彼女の心中は怒りで滾っていた。では、何故そうしないのか。武器がないから? 違う。拾えばどうとでもなる。致命傷を与えたから? いや、あれだけではまだ足りない。あんな傷では死にはしない。人を殺すのが怖くなった? いくら考えても答えはでない。それが余計に腹立たしかった。
……まあいい。次に会ったときにこそ、殺してしまえばいい。
携帯のフリップを開く。最近加えられたばかりの番号を選び、コールした。
「ねぇ、人を殺したいんだけど――」