生きてること地点だけが現実。後はみな幻想。いつの頃からか、私はそう思うようになった。
転々と移り住んだ家はみな借家。東京でも藤沢でも何回も転居し、その全ての家は開発の波に呑まれて跡形もない。
いったい亡父の仕事は何だったのか。測量機器のメーカーの輸出担当部署で一生を終えた亡き父は謎の多い人物だった。
どうしてあんなに引っ越しを繰り返す必要があったのか、それも謎の一つだが、真実を聞けるはずの母さえ失った今、答えは永遠に封印されてしまった。
不思議なのは借金取りに追われていたとか、ストーカーのように付き纏う悪友や親戚がいたというような転居を促す背景が無い事だ。
いずれの家も住みやすいが何ひとつ変哲のない家だった。
人が転居を決める契機は何なのだろうか。
仕事や結婚でやむを得ず引っ越しをする。あるいは新天地を求めて夢に賭ける。あるいは何者かの魔の手から姿を隠す。
そんな理由が考えられるが我が家の転居にはいずれも当て嵌まらない。
一つだけアレがその原因かと思える不思議な記憶がある。
亡き母が体調を崩したとき、まだ幼かった妹と中学生だった私は、父の描いた鉛筆がきの地図を頼りに近隣の学校や駅構内の水道の蛇口を開いては、水筒に水を溜めた事があった。
父は会社を休めなくて代わりに私たち兄妹が歩いて回ったのだった。
その前夜に私たちを呼んで翌日すべき事を説明した父の必死の形相が忘れられない。
もしかすると度重なる転居は、今流行りの風水にも似た信仰が父親を突き動かしていた事によるのかもしれない。