紗香はその表情を見て、自分が風呂に入っていると知りながら八重子がボイラーを消したのだと確信した。
確かに今日はいつもより遅く入った。しかしそれは八重子に言いつけられた仕事をしていたからだ。
八重子はこの屋敷に隣接した温泉旅館の3代目の女将だ。八重子の長男、隆一と結婚した紗香は若女将として働いている。
「もう少し入ってきます」紗香は言った。
バスタオル一枚で急いで出てきたので寒かった。
「それにしてもねぇ…どうしてそんな格好でこの家の中を歩き回るのかしら」八重子は眉をひそめて言う。
「すみません」
「嫌だったら実家に帰っていただいていいのよ、隆一の嫁の代わりはいくらでもいるわ」すたすたと八重子は去っていく。
『実家』と言っても、紗香にはもう、そんなものはなかった。15歳のとき父の暴力が原因で両親が離婚、19歳のとき母を癌で亡くし、一人ぼっちになった。八重子は行く当てのない紗香に、嫌味をこめて言ったのだった。
そして21歳のとき隆一と結婚し、今は3年経つが、子どもがなかなかできない。幼いとき父から受けた暴力が原因かもしれない、紗香はそう考えていた。
『嫁の代わりはいくらでも』と言われ、紗香は当てどもない悔しさを募らせていた。
しかしその一週間後、紗香の妊娠が発覚する。
つづく