翔子は思った。隣の飯田晶子は、近所に引っ越して来たのは「只野」と言っていた。「木下」ではない。他人の空似なんだ、きっと。もし木下賢介なら、向こうだって気が付かない訳がない。2年半も付き合っていたんだから。そう言えば長男の隼人も、先週「只野」と言う転校生が来たと言っていた。その子のお父さんなんだ、きっと。
翔子が買い物を終え、買ってきた物を整理していると、長男の隼人が帰ってきた。
「お母さん、お母さん。僕ね今ね、良い事して来たよ!」「えっ、良い事?」「うん。そこの坂の下で、買い物袋を重たそうに持っているおばさんが居てね、僕が袋を一つ持ってあげたの」「う〜ん、そうなの。それは良い事したね。で、どこのおばさん?」「この間転校して来た、只野君のおかあさんだったさ。来月、赤ちゃんが生まれるんだって。僕も弟か妹が欲しいなあ」「何馬鹿なこと言ってるの!」そう言いながら翔子は、そのお母さんと顔を会わせるのが楽しみになった。
翌日の朝、夫の俊章と亜弥と隼人を送り出した翔子は、化粧を始めた。そして普段着のジャージとTシャツを脱ぎ捨て、よそ行きに着替えた。別に何処かへ出掛ける訳ではない。翔子はゴミ袋を持ち、ゴミステーションへ向かった。(昨日と同じ時間帯。今日も会えるかな?)するとゴミステーションには、飯田晶子が先客として来ていて、翔子の服装を見て言った。「お早う、朝倉さん。こんな早くからお出掛け?」「あっ、お早う御座います。まあ、ちょっとね」翔子は苦し紛れの返事をした。するとそこへ、お腹の大きな婦人がやって来て「お早う御座います。先週の日曜日に引っ越しをしてきた、只野です」と挨拶をして来た。二人は顔を見合せて、それぞれ「飯田です」「朝倉です」と自己紹介をした。すると只野は翔子の方を向き「朝倉さんですか?昨日子供さんが、私の買い物袋を持ってくれたんですよ。こんなお腹なので本当に助かりました」「ええ、子供から聞きました。来月生まれるんですって?」「はい。予定日まで丁度1ヶ月なんです」「あっ、そうだ。もし時間が有ったら、うちでお話ししません?ねえ、飯田さんも」翔子は自分の服装も忘れて二人を誘った。「あら?朝倉さんはこれから、お出掛けじゃなかったの?」と晶子が言った。翔子は(はっ)と思い、顔が火照るのを感じたが「いえ、午後からでも良いの」と言い、改めて二人を誘った。