お母さん、ありがとう。
伝えたくても、もう届かない。
母が亡くなって、10年が経とうとしている。
私は理恵。28歳。まだまだ独身。介護施設で働いて6年。友人に恵まれ、楽しい毎日を送っている。
私が最後に母に会ったのは、1999年1月14日。
会話はしていない。どうして、目が覚めるまで待たなかったのかと今でも後悔している。
母はその翌々日、1月16日に静かに息を引き取った。
母は癌だった。私と妹には知らされてなかった。父と兄は知っていた。
母が病に冒され始めたのは、私が高校2年の夏だった。冒され始めたというのは、間違った表現かもしれない。恐らく、その時すでに、癌という病魔は母を蝕んでいたのだから。
母が入院をしたのは、1998年の夏。最初は検査入院だと言っていた。すぐに退院できると思っていた。
しかし、2ヶ月、3ヶ月、半年経ってもなかなか退院出来なかった。母は痩せ細っていくばかりだった。私の中で『もしかしたら…』という考えが増長していった。
私が高校3年生にあがった春。
母はようやく退院を迎えた。回復した訳ではない。一時退院だった。母は、ほどなくしてまた入院してしまった。
今思えば、この時少し体調が安定していたから、母にとっては家族で過ごせる最後のチャンスだったのかもしれない。
再入院をしてから、母の体調は悪化の一途を辿った。
私は学校帰りに顔を見せに病室を覗いていた。
ある時、母と約束を交わした。受験勉強をしながら、母が起きるのを待っていた。すると、「理恵?約束をしよ?お母さん春までに元気になるから、理恵は必ず大学に合格してね。」と、母が言った。私は母との約束を守る為に、一生懸命受験勉強に取り組んだ。母に会いに行っては「約束だよ。頑張ろうね。」と声をかけ続けた。
しかし、母の病状は回復することはなかった。食欲はなくやつれ、髪は抜け、体に管がいっぱいつながっていた。私は『もしかしたら』という考えを払拭しきれなかった。
そうして時間だけが流れ、1999年1月14日を迎えた。私はいつものごとく学校帰りに病室に寄った。母はずっと眠っていた。
私は16日から大分大学でセンター試験を受ける為、15日から学年全体で別府のホテルに宿泊するようになっていた。だから、14日が試験前に会える最後の日だった。でも、その日に限って、母は日が暮れても目を覚まさなかった。