なんで昨日、坂本は柴犬を見て逃げ出したのか。
そう、その柴犬はタロウだったのだ。
坂本は、父親であるおじさんがタロウを連れて来ているのだと思ったのだろう。さすがの不良も、父親には弱いということか。
本当に散歩していたのか、タロウが逃げ出したのか、そこまではわからない。
それにしても、こんなことで名探偵気分になる僕って一体…。
「あっ、思い出した!」
松井がいきなり声を上げる。
「何を?」
「昨日の忘れ物」
「今ごろ?」
今日も空は灰色で、冷たい息を吹いている。
「で、何を忘れてたわけ?」
僕は一応訊いてあげた。
「『勇ましさ』だよ。勇ましさ」
「君は何を言っているんだい?」
芝居がかった感じで僕は言った。
「悲壮ってのは、悲しい中にも勇ましさがあるさまなんだよ」
松井の言うことは、いつも理解不能だ。
「昨日は勇ましさを忘れたから、『悲壮』じゃなくて、『悲愴』だった」
やっぱりよくわからない。
松井の言葉には、神様でさえ頭を悩まされるだろう。
席に座ると、横田がかけ寄ってきた。
「良かったな」
横田が僕の机を指さすから、下を向いて見ると、サインペンでこう書かれていた。
〈わたしの方を見て。わたしの指さす方にわたしの気持ちが描いてある〉
僕はすかさず窓側の一番端の席を見る。
その人は、黒板を指さしていた。
黒板の隅っこに、白いチョークで小さくハートが描かれている。
その人は、美しく、優しい人だった。
ー終わりー