今どきの招き猫は、たいてい小判を抱えている。いや、抱えさせられていると言った方がよい。吾輩が睨んだところによれば、それは「猫に小判」という諺がさせたことだ。
実際、吾輩どもは、金などに興味はない。まあ目の前に置かれれば、どんな反応をするもんかと、始めは身構えながらも、片手で突っついたり、あるいは転がして見るかも知れないが、所謂、経済的価値など全く興味がない。多分人は、小判と遊ぶそんな吾輩たちを見つめながら、経済的価値など知らぬ癖にと思いつつ、「猫に小判」と言い始めたに違いない。
まあ、このくらいのことで怒るのも大人気ないので吾輩も大目に見てはやる。しかし問題は、自らの商売繁盛だかなんだか知らぬが、招き猫なるものに頼っておいて、一方では価値も分からぬ奴と見下しつつ、しかもそれを持たせては自らの願いを叶えてもらおうとするその根性が、気にいらん!
なんだか、昔、吾輩自身が喰らったところの説教と似た口調となってしまったが、そう言うことだ。つまり猫を猫と見ないその態度が気に入らない。吾輩は心配して言うのだが、猫が貨幣価値、商売的利用を知らぬと思って調子に乗り過ぎると、「上手に隠れた招き猫の爪も、やがては招きついでに、あなたの身に振り落とされる」と忠告しておきたい。
いやはや、ここまで言っても、なお恒例、「猫の手をも借りたいほど」と忙しく精を出している者もいる。ここは桔梗屋さんとタマとの仲裁に一休さんを頼むしか手立てがない。
しかし人は、よくもこれだけたくさん、猫を小馬鹿にした創作を生み出せたかと感心する。こちらとしては、吾輩の人気の結果と見たらいいのか、吾輩が文句を言えないのをいいことに調子づいているのか、ちゃんと説明責任を果たして貰わぬと、よくわからない。こうなれば、一層「猫に真珠」「猫の耳に念仏」「猫も歩けば」「猫と猫の化かし合い」「猫の顔も三度まで」と、すべて独占してしまいたい気分だ。実際、小馬鹿にされつつも澄まして流してやっているこの猫の顔も、せいぜい三回が限度である。
所変わるが、ニューヨークには$を抱えた「ドラーキャット」というものが居るらしい。それは招き猫とは反対に、手の甲をこちらに向けて、中には親指を起こしていたりする、むしろ「カムォン猫」と呼ぶに相応しい姿だ。しかし吾輩の場合は、やはり、すぐに一掻きへと移せる招き猫の手の方が好みだ。