春の日の、ほんのり陽のさす縁側の、昼寝をすること、吾輩にとっては、いとのどかなほどに心地よい。
さてさて、昼寝と一言で言っても、そこには色々ある。時には遠くに遊ぶは子供らの声があったり、あるいは飼い主たるはご主人様の、何やら多忙のすさまじき足音もある。じっくり見れば、誠に趣深く、一言で表すは至難の業なり。
ところで「まあ、ゆっくり御休息のところ、ほんに周囲の喧騒、気の毒申す」などの同情、まあもともとそんな心配をいただける身分ではないが、吾輩にとっては到底要らぬ。確かに急な周囲の多忙なる騒がしき物音には「一体全体なにごとぞ、吾輩の昼寝を邪魔するつもりか」と、やや不機嫌なりにも仕方なく、ちょっこら目を開けては、辺りを確認せねばならない。しかし不思議なもので、そんな途中まで開きかかった当の瞼も、自然と閉じてしまふあの瞬間、普段とは違った、言葉では到底言い表せぬ心地良さなりを味わえる。
実際、身の危険を感じた際の一目散に逃げるは、吾輩の習性にある。逃げるにいたらぬは、すなわち、それほどの不快なる騒音でないを意味し、強いては、かの騒音なるも、我が身を守る飼い主様の近くにあることの証となるが故に、安心して眠っていられるにある。
まあ、たかが猫の昼寝、そんなに真剣に考えてみるだけの価値もごさらんが、いずれにせよ、そんな吾輩の昼寝姿を愛くるしいと見つめて下さる飼い主一同様の視線なんかも、たまにはこの丸い背中に感じたりもして、ほんに何とも言えぬ心地となる。
どうだろう、皆様の中にもきっと、こんな吾輩どもの一時の昼寝に「何となく絵になるなあ」と思うこと、一度や二度、あるはずだ。多分それも、こんな吾輩どもの昼寝を通してなされる、光のどけき春の日の、ほんのり広がった結果に相違ない。