そこはなにもない楽園だった。
皆が平等な世界だった。
この世界は善も悪も、幸も不幸もないがゆえに、日々の営みに差は生まれなかった。
ただ、連綿と続く日常は、平坦で、
ただ、漠然と過ぎる時間は、無意味だった。
だからここには、なにもない。
新たに芽吹く命もなく、老い死ぬこともない閉じたここは、
なにもないがゆえに平等で、
なにもないがために楽園だった。
ただ、それをよしとしない者がいた。
ただ一人、彼は楽園の皆に幸せを、不幸を説いた。
だが、誰ひとりとして、彼の言葉に賛同はしなかった。
けれど、決して彼を無下には扱わなかった。
それは、ここが楽園だから…。
幸せも不幸もないここは、だから決して他者を拒まない。
そして、
幸せも不幸もないここは、だから決して他者を受け入れはしない。
だから、ここにはなにもない。
善も悪も、幸も不幸も、始まりも終わりも、怒りも悲しみも、努力も苦痛も、、欲も、嫉妬も…
そして、愛や恋も。
彼はそれが耐えられなかった。
一人の女性に恋をし、愛してしまった彼の気持ちは、
けれど、どんな言葉をもってしても、彼女の心に届くことはなかったのだ。
拒まず、受け入れず、
彼女との距離は、決して縮まることはなかった。
それでも彼は幸福の定義を、不幸の意味を、皆に説いた。
「不幸があるから幸せが実感できる。 今、私達が実感しているのは、ただの時間の流れに他ならない! ただ連綿と続く日々に、私達は何も得ていない! 皆よ悲しめ、そしてその先にある幸福を噛み締めよ!」
彼は毎日、皆に語りかけた。
そうして3年の月日が流れたある日、彼はいつものように、皆に語りかけた後、その終わりのない世界から抜け出した。
「皆よ悲しめ、そしてその先にある幸福を噛み締めよ!」
そう話しを締めくくると共に、彼は目の前に佇んでいた愛する女性と唇を重ねた。
楽園ではなんの意味も持たない「キス」という名前さえない、肌の接触。
誰も彼の《特別》な感情を分かりはしなかった。
彼はほんの数秒、女性と唇を重ねて、
にこやかに笑った。
そして…