1-4 こころ憂し
春子の噂の事を誰に聞いても,知らん。
の一言で,ある人は,
指南所に飽きて夜逃げでもしたんじゃないか。
とも言った。
春子の手がかりが無くなった粋乃は,毎日を仕方なく過ごした。
†
4ヶ月が過ぎた。
8月の眩しい太陽が
容赦なく地を照らし出した頃,階堂家に訪ねて来た客人が,
いつもの様に世間話をする中で,
久しぶりに春子の名を口にした。
「指南所の
春子ですがね‥」
粋乃は反射的に客人の話に耳を傾けた。
「4日前の夜に亡くなったそうで。今日は指南所でその葬儀をするそうですよ。」
粋乃は耳を疑った。
春子は明るく強いイメージしかなかったのだ。
死んだなんて信じられない。
居てもたってもいられず粋乃は家を飛び出した。
女中達の呼び叫ぶ声など聞こえない。
ただ,夢中で走った。
†
桜並木まで来た時,
微かに線香の香りが漂ってきた。
指南所に近づくと共にそれは確かな物になり,
春子が死んだと言う現実を粋乃は初めて肌で感じた。
指南所の門の前で,
粋乃と同じ位の男の子が座っているのが見えた。
顔の輪郭や雰囲気が春子に似ていることから,
恐らく春子の息子であろうと粋乃は思った。
指南所からは住職のお経が聞こえてくる。
「ねぇ,
中へ入らないの?」
粋乃はその男の子に近づいて声をかけた。
「これが終わったら,
中に入るよ。」
地面に穴を堀りながら男の子は穏やかに答えた。
「何を,作っているの?」
「― 蟻の墓。」
「蟻の墓?!」
自分の母親の葬式も出ずにちっぽけな蟻の墓を作っている男の子に,
粋乃は微かな怒りを覚えた。
●●続く●●