日頃、喧嘩が下手だと友人関係に支障する。友人は喧嘩を挑んでいるのであり、楽にアグラを掻いている若い世代は、喧嘩を嫌う傾向にある。
優しさが何かも判らず、人間だけにしかない知恵を持ち出し、遊びに没頭するのは、喧嘩しているのと変わらない。ゲームが喧嘩の材料だ。
ゲームに強ければ、友人の羨望の的だ。反対に弱いと、喧嘩も弱いと判断される。喧嘩は動物に見るまでもない縄張り争いだ。その縄張りでトップを争うのだ。
喧嘩が終わったら、人生も終わったと判断して良い。ゲームに弱いと縄張りを奪われるからだ。暗に喧嘩を勧めているのではない。人間の縄張り本能がゲームで開花するのだ。
若者にゲームを勧めて、反発する親の多くはゲームを知らない。ピアノや音楽、テレビゲーム、野球、すべてゲームが運営している。神だなと実感したとき、ゲームに強くなる素質が生まれる。
やはり神の存在が介入し、人間の居住空間にも神は押し寄せる。存在さえ否定されたキリストの復活である。宗教観からゲームは始まり、存在感から神に昇華する。
このように、神とゲームをみても切り離せない関係にある。すると、ゲームの神様は万物の頂点に立ち、人間の支配にゲームをもたらした。さらに複雑化したゲームをクリアし、神と人間との共存を謀るのだ。陰謀に隠された神は、新たな不始末を人間に与えるであろう。