2-8 椿
『どうしたの,そんな怖い顔して。』
帰って来た抄司郎を見るなり,柳瀬屋の女将のトシが言った。
抄司郎は武部とのやり取りがあってから,虫の居所が悪い。
『五月蝿い。ほっといてくれ。』
トシから顔を背けた。
やはりこういう時,トシの優しさを素直に受け止められない。
『つれないねぇ。』
と溜め息をついてから,
『あ,そうそう。
あの子の目が覚めたよ。あんたに礼が言いたいそうだから,早く行ってやんな。』
トシは抄司郎の背中をおした。
†
女は部屋の隅に俯いて小さく座っていた。
そして抄司郎が部屋に入る気配を感じ取るなり,
畳に手をついて深々と頭を下げた。
『昨夜は大変失礼な事を致しました。
ここまで運んでくれた上に足の手当てまでして下さって‥何とお礼を申せば良いか。』
『いや‥』
抄司郎は女の前に正座した。
『礼など必要ない。君を騒動に巻き込んでしまって,こちらこそ悪かったと思っている。』
『いいえ,悪いのは私です。しかし‥』
女は,
ようやく頭をあげた。
左頬の刀傷だけがやけにはっきりと見える。
『昨夜の事,あまり覚えていないんです。
女将さんに今朝聞いた事しか,思い出せません。』
『もしや‥』
抄司郎は思わず吹き出した。
『酒に酔っていたな。』
『‥恥ずかしながら,』
申し訳なさそうに女は答えた。
酔っていたのなら,女が昨夜人斬りとしての自分を恐れなかった事に説明がつく。
もちろん,
人斬りを見た事など忘れている筈だ。
ついた返り血を拭きに抜刀したままの抄司郎の元に飛び込んできた事も。
抄司郎は,何か心のつかえが取れたような気がしていた。
『君,名は?』
『‥はい,』
女は抄司郎を真っ直ぐに見,
『椿と申します。』
初めて微笑みを見せた。
≠≠続く≠≠