人間とはダサい。いけすけない。人間のダサさは何処から来るのか。発生の由来である。生活慣習の違いからだと推測できる。人間の生活様式が高ければ、違いを認め合い、抱き合うことも可能だ。しかし、外人に例を見るまでもなく、異文化と接するといけすけない。
それは人間対人間の場面で起き、人間対人間の衝突で発生する。人間が居なかったら、自然対人間の格闘は非を見るまでもない。人間の衝突で異文化は消され、排他され、見せしめにさせられる。つまり、文化は遺産であり、遺産に見合わない文化は娯楽となり、家庭を占拠する羽目となる。そこでタレントは文化に見合わない主張を繰り返すのだ。
タレントに留まらず、政治家まで文化をねじ曲げると文明の衝突は免れない。文化的価値がもたらした恩恵である。その恩恵にしたって限りがある。その区切りを何処で引くかだが、ねじ曲げた文化と衝突をもたらした文化の接点、つまり、人間の限りは文化との競合である。
良くいう人間は一人も要らないのだ。それは衝突に過ぎず、畏れていた事態の前触れにしか過ぎない。いけすけない人間の数だけでもウンザリする。何故、理由が必要であろうか。人間に理由など要らないのだ。
神は人間を愛するに理由など必要としなかった。人間だけが理由を必要としたのだ。それは逃げる為だが、人間が逃げた所で何もない。無知にも拘わらず、逃げの訓練だけ必死なものだから、決まっていけすけない大人の登場である。彼らは逃げているのだ。闘っていると偽って逃げている。文明の衝突を畏れる余り、学歴に逃げ、仕事に逃げ、家庭に逃げているのだ。
文明など鳩の糞で十分だが、意見の無い大人に反省は少ない。決まりから見破られる。そうなると外人の思う壷だ。混乱に乗じた外人の登場である。意見を持って戦う術を身に着けるべきだ。意見は裏切らない。それが民主というものだ。反省ばかりで意見を逃すと偉い目に遭う。