時間にすれば、ほんの数秒の事だったと思う。
我に返って看護師の顔に戻ろうとする私に、コウが言いにくそうに訊ねた。
「吉村さん…、おっぱいが…」
しまったと思ったが、後の祭だった。
私は仕方なく、できる限りの明るい声で正直に話した。
「あらっ?バレちゃった?私ね、左のおっぱいが無いんだ。乳癌でね、十年前に全部取っちゃったの。いつもは偽物のおっぱいを入れてるんだけど、今日は手術の介助だから外したのを、忘れてた」
コウは驚きの表情を浮かべたが、それ以上は何も聞かなかった。いや、聞けなかったのだ。コウの瞳からは、また新しい涙が溢れそうになっていたから…。
私はコウから視線を逸らせ、そそくさと病室を出た。
それからしばらくは、そのことに触れる機会は無かった。
コウが入っていたのは四人部屋だったから、他の患者たちと同様に、看護に必要な会話を交わすだけの日々が流れていった。
数日経って、コウがベッドから起き上がれるようになると、私たちが話す機会が意外な形で訪れた。
私が夜勤の時、患者が寝静まった深夜に、待合室のベンチに座ってCDを聴いたり、文庫本を広げているコウの姿を見かけるようになった。
病室の巡回が終わって、ちょっと一息つく時、私は紙コップ入りのコーヒーを買って、待合室に行った。
コウの隣に座り、コーヒーを差し出すと、本当に無邪気で嬉しそうな笑顔を見せてくれる。それを見ると、不規則な勤務で身体の中に堆積している疲労が取り除かれ、精神を蝕んでいるストレスから解放された。
コウとの会話は楽しかった。
高校生とは思えないくらい話題が豊富で、医療のこと以外には全く無知だった私に、たくさんの新しい世界を教えてくれた。
特に、幼い頃からピアノを習っているコウが、クラシック音楽を語る時の夢見るような瞳に、私は年甲斐もなく、ときめきを覚えるのだった。