優しさと思いやりなど、人間の基本とする原則に足を踏み入れると、ボスとする器について意見があろう。意見を持たない人間はボスの存在を認めていない。人間は意見を持って対処に当たるべきだ。意見が少ない人間は仕事も少ない。男女に拘わらず、無関心では仕事の投げ売りだ。
関心の少ない大人に混じり、意見を闘わすのは如何なものか。決まって、無意味に終わり、人間についての洞察を疑われる。深く探求すると、人間はギャンブルに向く。軽薄な感謝から逃れ、人間のルールに従って、お馬を走らせるのである。そこに悲喜こもごもの人間感情が織り成す具体的場面に遭遇して、人間の感情が支配したボスを見つけるのだ。
人間にはボス猿があり、心に従って人間の感情をコントロールする。誰でも低い山は持っているのだ。高いが損の考えが人間を支配する事への反発となり、服従しきれない犯罪が後を絶たない。人間からやり直せば良いのだが、高いが損の考えでは藪蛇に喰われるか、カエルとなっている。
カエルではカエサルだが、何処かで聴いた響きだ。人間なんてカエルではない。増して闘う勇気など哲学に在るまい。人間は戦争を通して語られた。つまり、それはゲームを楽しむ為だ。戦争の残した爪痕には、びっしりと敗北が並び、人間の殺戮による政治が如何に酷かったかだ。ゲームは続き、人権だの男女同権だの、人間を喜ばすことで生き延びてきた。
これからも不遜の政治は続くと思われるが、政治家がだらしない。つまり、それは民意への押し売りであり、戦争への反発でもある。ゲームに強ければ、男女など同権どころか支配も危うい。男性危機ならぬ、同権による報われない差別である。政治はだらしなく、人間は報われないと解るとゲームに熱中するしかない。ゲームの中でしか生き残る道を模索するのは困難だろう。