昼間の喧騒が嘘のように、暗く静まり返った外来の廊下を、待合室に向かってゆっくりと歩く。
今夜もコウは、待合室にいるだろうか?
いつもの笑顔を、私に向けてくれるだろうか?
私の手料理を、喜んで食べてくれるだろうか?
こんな気持ちになるのだったら、驚かせようなんて考えないで、朝の検温の時にでも伝えておけばよかった。
お弁当を届けに行くからねって…。
待合室が近付くにつれて、不安と緊張とで脚ががくがくと震えてきた。
45歳にもなったおばさんが、なんて情けないことだと自嘲してみるが、震えは一向に収まらない。
廊下を曲がると、待合室の明かりが見えてきた。
心臓が破裂しそうなくらい、早鐘を打っている。
待合室の薄明かりの中。
いつもの長椅子にコウはいた。
今夜はパジャマではなく、ジーンズにボタンダウンのシャツ。明日の退院の準備でもしていたのだろう。
「こんばんは、孝一君」
コウの後ろから近付き、膝が崩れそうになるのを何とか堪えて、声をかけた。
「こんばんは!吉村婦長さん。絶対に、来てくれるって思ってました」
いつもと変わらない、屈託のない笑顔。
私の不安は氷解し、緊張が急速に緩んでいく。
「ホントかしら?でも、入院生活、最後の夜だもんね。だから今夜はね、孝一君にお弁当を差し入れに来たんだ。この前のお礼」
私が言うと、コウは戸惑った表情で首を傾げた。
「お礼…、ですか?」
「そうだよ。この前私が泣いちゃった時に、抱っこしてくれたでしょ?そのお礼よ」
私が説明すると、コウの表情が和らいだ。
「なあんだ、そっちのことか。お礼なんて言うから、てっきり僕がおっぱいにイタズラしたことの、『お礼参り』かな、なんて勘違いしちゃったよ」
コウのおどけた言い方に、私は心の中で頭を下げた。
どうして、この17歳の男の子は、こんなにも人に優しく出来るのだろう。
私が勝手に取り乱して、胸を開いて見せたと言うのに、自分がイタズラで乳房を触ったことにしてしまう。
私の恥じる気持ちを、そうして糊塗してしまうのだ。
私の瞳が潤んでくる。
「ありがとうね、コウ…」
私は呟いた。
それ以上、言葉が出て来ない。こんな時に、気の利いた台詞も出て来ないなんて、本当に情けない。
私はちょっと自己嫌悪に陥った。